『さくら』で町の歴史をおさらい
都心から地下鉄東西線に乗るとアッという間に千葉県浦安市の玄関口・浦安駅に着く。浦安というと、かの黒ネズミの楽園の所在地という圧倒的なインパクトを除けば、千葉都民の暮らす東京のベッドタウンというイメージしか残らないが、この駅前の風情もほぼほぼ東京近郊のベッドタウンのそれだ。
「人間、額に汗して油にまみれて地道に暮らさなきゃいけねえ。それに早く気づかなきゃいけねえんだ」
第5作で、遊び人だった正吉親分の息子が、小樽でSLの機関士として汗水流し油にまみれて働く姿に感化された寅さん。以降、労働に目覚め、印刷屋、寿司屋、天ぷら屋、風呂屋での就労を断られた末、流れついたこの町(当時は浦安町)の豆腐屋で、地道な暮らしを営まんと奮闘する。
寅さん、なんでこの町で働いたのかな~。
んなことをぼんやり考えつつ、駅前で見つけた、その名も『さくら』という喫茶店で、まずは町の成り立ちを軽くおさらい。
浦安はもともと旧江戸川の三角洲に発達した、三方を水に囲まれた町。その土地柄から昭和40年代初頭まで漁師町として賑わい、河川は多くの漁船で埋め尽くされていた。その中心軸が境川で、町も境川の両岸に広がっていた。
確かに映画にも川沿いに漁師町の光景がチラチラ映っていたぞ。ならば、この町を歩く上で境川は外せまい。かくして『さくら』を後にした兄ちゃんは……いや、筆者は境川に向かうのだった。
漁師町時代の中心地・境川をたどる
境川。旧江戸川から東に分かれて、東京湾に注ぐ、長さ約4.8kmの一級河川。河口付近の東岸はディズニーランドだ。
まず向かったのは、浦安駅から西へ300mほど、旧江戸川からの分流点となる境川西水門。すぐ近くの上空を東西線の鉄橋が通る。
このあたりの旧江戸川岸は、明治期から昭和初期にかけて、東京方面や江戸川沿岸の各地を結ぶ蒸気船が頻繁に発着していたことから、「蒸気河岸」と呼ばれていた。浦安の玄関口であったわけだ。
一方、境川下流方面からの水門の光景は、さくらが寅さんを訪ねて来た際、まず最初に映し出されている。映像ではびっしり小さな漁船が並び、漁師町の風情を色濃く醸し出している。
今はどうか。界隈の数件の船宿や水門の向こう側の旧江戸川岸に係留されている釣り船がわずかにその名残を留めるが、境川は繋がれる船もなく静まり返っている。
ただ、苔むした護岸や主のいなくなって久しい係留柱(係留用の綱を掛ける突起物)が、深いシワが刻まれた老職人の手のように往時の働きぶりを偲ばせていた。
新橋から堀江フラワー通りへ
西水門から境川を下ることしばらく、新橋(宮前通り)に至る。ここは、柴又に帰るさくらを寅さんが見送るシーンで登場する。道幅も欄干も当時とは様相が異なるが、スクリーン右奥の地域の氏神・清瀧神社の木立が、同じ場所だと教えてくれた。
神社の手前は浦安町役場跡。町役場に氏神様が並んでいるところなんざ、まさにこのあたりが浦安の中心地だったことの証左だ。
川下に向かって左岸方面に庚申通り、右岸方面に堀江フラワー通り。境川とほぼ並行するこの二筋の通り沿いに、旧市街地が形成されていた。昭和初期の最盛期には、芝居小屋や寄席、料亭などもあり、たいそうな賑わいだったとか。
さて、「浦安」で「フラワー」と聞いてピーンと来たアンタ、さしずめ同年輩だな。そう、80年代の人気バラエティー番組『天才!たけしの元気が出るテレビ』内の企画で注目された「浦安フラワー商店街」はまさにここなのだ。
「♪ここに~来なけりゃ~死んでしまう~コイコイ!」
番組内で制作された同商店街のCMソング『フラワー商店街 コイコイ音頭』(作詞作曲:川崎徹)を口ずさみながら、堀江フラワー通りをゆく。
が、残念ながら商店街も繁栄の面影も今はない。ただ、旧宇田川家住宅、旧大塚家住宅の伝統建築物、点在する古民家カフェやギャラリー、そして家々の緑が織り成す小京都的な風情が妙に心を落ち着かせる。
漁師町に「労働」を感じて
一般公開されている旧大塚家を覗くと、学芸員の方がいたので、町の成り立ちについて聞いてみた。
「このあたりは半農半漁で生計を立てている家が多かったんです。女性も忙しく食事の準備をする時間がなかったので、周囲に食べ物を扱う店が建ち並ぶようになったんですよ」
おお、なるほど。やはり浦安は働き者の町だったのだ。
寅さんも、
「漁師町」→「働き者」→「労働」
というインスピレーションが働いて、この町で働こうと思ったんじゃないかな。
第28作でも愛子(演:岸本加代子)の兄(演:地井武男)が乗るマグロ漁船の出港にわざわざ出向き、
「おおーい、マグロいっぱい獲って来いよー!金が儲かっても外国の女なんて買うなー!」
と激励するあたり、漁師に好意的な様子だし。
以上、勝手な妄想。
「あんまり飛躍しちゃダメよ」
と、さくらにたしなめられそうだが、散歩の徒然(つれづれ)を慰めるにはちょうどいい。
新中橋から境橋あたり
第5作のマドンナ・節子さん(演:長山藍子)の母が営み、寅さんが働いた豆腐屋「三七十屋」も、漁師町の食を支えるワンピースだったに違いない(架空ですが)。
その豆腐屋の撮影地は、新中橋を越えたあたり。この橋から境橋にかけての一帯がかつて最も賑わったエリアだったようだが、今はほぼ住宅街。節子さんが勤める美容室も、「♪包丁1本~さらしに巻いて~」と鼻歌を歌いながら寅さんが自転車を転がす町内も、映画の情景を彷彿とさせるものはほとんど無い。
かろうじて映画の面影を残すのは、御前様に破門された源公がテキ屋の真似事をしていた正福寺、少し上流に戻ってさくらが道を尋ねるシーンで映る猫実の庚申塔くらいか。
その反面、このあたりの境川の護岸(新橋から下流方面)は赤レンガ調に修景、また水際には遊歩道も整備され、散策するには心地いい。
漁師町の動脈としての役割を終えて、また新たに別の魅力を孕(はら)むことになった境川界隈。それもそれでいいってことよ。
変わる町・変わる労働のアンチテーゼか
さぁて、ひとまず散歩は、今日の労働は終わった。ちょっと一杯ひっかけて帰ろう。道々、地元の人たちに勧められたフラワー通りの老舗そば処『天哲』さんに立ち寄る。
冷酒頼んじゃおう。何しろ、労働したからなオレ。冷奴ももらおうかな。何しろ額に汗して働いたからなオレ。いやあ、労働した後の酒ってうまいなあ。
ひと心地ついて、今日の道程を振り返ってみる。すると、
たかだか50年でこうも変わるもんかねぇ。
ついおばちゃん(とらや)風のため息がもれた。
映像と現状のギャップがここまで激しいとは……。何しろ町がまったく変わってしまったのだから驚きを隠せない。たとえば、柴又の帝釈天界隈は、駅前以外は50年前からあまり変わらないのに……。
浦安の町の変貌の大きな転機はご多分にもれず、河川・海浜の埋め立てと開発、およびそれに伴う水質の悪化だろう。漁場がなくなっちゃ、町だって変わるわな。結局、昭和46年(1971)に浦安の漁民は漁業権を全面放棄するに至る。第5作公開の1年後だ。
昭和44年(1969)の東西線の浦安延伸も町にとっては大きなインパクトだろう。何しろベッドタウン化の牽引車なのだから。第5作公開の1年前だ。
町が変われば、働く場所も、働く人も、働く人の意識も変わる。
思えば、寅さんが言う労働である「汗水流して、油にまみれて働くこと」が敬遠される風潮が強まり始めたのも、この頃からなのかもしれない。
そんな時代の変わり目に、『男はつらいよ望郷篇』は公開された。きっと、この作品や労働について語られた寅さんの言葉は、変わりつつある「労働」への強烈なアンチテーゼなんだ。
「徐々に変わるんだよ。いっぺんに変わったら身体に悪いじゃねえかよ」
軽く酔いがまわったアタマのなかに、そんな寅さんのセリフが聞こえてきた。
文・撮影=瀬戸信保 イラスト=オギリマサホ
(文中、セリフの引用元は特に表記したもの以外は『男はつらいよ望郷篇』)