こんな場所に外国人向けの旅館があるなんて知らなかった
池袋駅西口から北の方面は飲み屋やラブホテルが多く、お世辞にも柄がいいとはいえないエリアを突っ切って歩くこと2〜3分。マンションや会社などが増えてきた中、壁に丸く空いた穴が印象的な白い建物。ここが貴美旅館だ。正直、この辺りにきちんとした旅館があるなんてまったく思っていなかったので、ちょっとびっくり。調べてみると、この付近にはほかにも何軒か旅館があることがわかり、ますます驚いてしまった。
全体的にすっきりしていて洒落た外観。入り口付近は余裕があり、ベビーカーを置くことも可能だ。カフェは旅館の中なので、共通の入り口から暖簾を上げて入る。玄関で靴を脱ぎ、スリッパで艶のある木の廊下を歩く。
貴美旅館が開業したのは1952年頃。40年ほど通常の旅館として営業した後、世界を旅した2代目館主・湊貴三郎さんの「世界中から旅好きな楽しい仲間が集う空間をつくりたい」という思いから、外国人向けの宿になった。当時は外国人には畳や和風の設(しつら)えが珍しく、とても評判になったという。
さまざまな理由が重なって誕生したカフェ
カフェ営業のきっかけのひとつは「外国人客の多くは外でコーヒーを買ってきているから、旅館の中でカフェをやったらいいんじゃないですか」というスタッフのひと言だ。さらにコロナの影響で外国人観光客が減ったこと、そして貴三郎さんの妻でコーヒー好きの奈巳(なみ)さんがカフェ営業に興味があったことなどさまざまなことが重なって、2021年7月に『Kimi Natural 73+ CAFE』はオープンした。最初から、1階でコーヒーやサンドウィッチを販売し、1階のイートインスペースか、2階の個室でゆったりいただくスタイルだった。
奥深いスペシャリティコーヒーの世界。そしてトレーナーとの出会い
カフェ営業を決め、コーヒーコーディネーターの資格は取得したものの、実践の場が乏しいことに悩んでいた奈巳さん。都心に行けばコーヒートレーナーは見つかるが、湊家の住まいは埼玉県ときがわ町。3人の子どもたちもまだ小さい。はてさて……。と壁にぶつかっていたそのとき、またしてもスタッフのひと言からとても大切な縁が見つかることになる。
スタッフ曰く、つい最近、ニュージーランドから日本に帰ってきてスペシャルティコーヒー専門の焙煎所を開いた人がいるという。コヤナギコーヒーニッポン代表・小柳氏のことだ。コーヒー文化が盛んなニュージーランドの焙煎会社でカフェスタッフへのトレーニングを担当し、世界大会にも出場経験もある。トレーナーとしての力量は十分。そして驚くことに焙煎所は湊家の住まいからほど近い東松山だという。「行くしかない」と、すぐに小柳氏に会いにいった奈巳さん。淹れてもらったコーヒーがびっくりするほどおいしく、コーヒーの奥深さにあらためて気づいたと話す。半年以上にわたり小柳氏からバリスタトレーニングを受け、技術も知識も大きく向上。おいしいコーヒーが提供できるレベルに達した。もちろんこの店のコーヒーはコヤナギコーヒーニッポン焙煎所から仕入れている。
体にやさしい食材とたっぷりの野菜がうれしいモチモチのピアーダ
11時から15時まで楽しめるランチプレートは、サンドウィッチやマフィン、トーストなどコーヒーにぴったりのメニューが揃う。その中で珍しいのはピアーダだろう。小麦粉、オリーブオイル、塩、卵を混ぜた自家製の生地をフライパンで薄く焼き、中にいろんな具材を入れて巻いたイタリアの軽食だ。今回オーダーしたピアーダには、イタリア産の生ハムと北海道十勝産のカマンベールチーズ、そしてたっぷりの野菜が入っていた。
ピアーダはトルティーヤくらいの厚みで、モチモチッとした弾力。ふんわりと小麦粉の香りが漂う。薄い塩味があるのでこれだけでもおいしいかも。中からはみずみずしい野菜のパリッとした食感、生ハムのしっかりとした塩味、濃厚なカマンベールチーズがあふれ出てくる。一つひとつの食材がきちんと主張しながら、ピアーダと調味料で絶妙にまとまっている。深いコクと甘みのあるカフェラテとの相性も抜群で、じわっとおいしい健康的な味だ。
ピアーダ自体にもたくさんの野菜が入っているが、つけ合わせも野菜がたっぷり。思った以上にボリュームがある。毎日こんなランチが食べたい!
子どもに安心して食べさせられるおいしさと、みんながくつろげる場所
奈巳さんが、食と体について考えだしたのは子どもの頃。糖尿病だった祖母の影響で、食材の分類やカロリーについて考え始めたという。「スポーツトレーナーになったのはその影響かも」。子どもが生まれ、東京から埼玉県ときがわ町に移住したのも「自然の多い場所でのびのびと育てたい」という気持ちが強くなったからだった。
ときがわ町付近でとれた農薬の少ない新鮮な野菜を毎日仕入れている。生ハムも無添加、カマンベールチーズもセルロースの入っていないものを探し当てた。オリーブオイルはイタリア産のオーガニックバージンオイル、無添加で質のいい調味料、平飼いの卵……とすべての食材に強くこだわる根底にあるのは「子どもに安心して食べさせられるものを提供したい」という思いだ。
旅館の空いている部屋をカフェの個室として使うことで「子ども連れでもゆったりとおいしいコーヒーを飲んでほしい」という希望も叶った。現在カフェの個室は全部で6部屋あるが、外国人観光客の宿泊が戻ってきたら変更もあるとのこと。
コロナをきっかけに不思議な縁や環境に支えられできあがったエアポケットのような穏やかなカフェ。これからの変化も楽しみだ。
取材・⽂・撮影=ミヤウチマサコ 構成=アド・グリーン