目指したのは何も乗っけない「素銭湯」
地下鉄東西線の落合駅から徒歩1分。たくさんの車が行き交う早稲田通りから1本入った静かな住宅地に『松の湯』があります。
創業は1923年(大正12)で、100年以上の歴史を持つ銭湯ですが、清廉な白壁の外観からもわかる通り改装したばかり(2023年リニューアル)。
4代目店主の笠原洋人さんは、自身の理想の銭湯をつくるべく、数々の人気銭湯を手がけてきた今井健太郎氏にリニューアルの設計を依頼しました。
笠原さんと今井さんが、徹底的に議論し表現しているのは「素銭湯」。
「素うどん」などのように、何も乗っけないことがコンセプトになっています。
落ち着いた統一感の演出にはこだわりが詰まっていた
「素銭湯」実現のため、サウナブームの真っ只中にありながら、あえてサウナさえも設置しないことを選んだリニューアル。
なにもないことの魅力は、浴室に一歩入ればわかります。
一面に貼られた50mⅿ角の深い藍色のタイル。
店主の笠原さんが「一般的な銭湯は、床と壁で別々のタイルを使いますが、同じものにしています」と話すように、このタイルによって浴室全体に、凛とした雰囲気の統一感が保たれています。
音さえも引き算をしたという通り、店内にはテレビもなければ音楽もかかっていません。浴室にいると、奥から手前の浴槽にお湯が流れ込む水音だけが聞こえてきます。
こんな空間で湯に浸かり、水面のきらめきを眺めていれば、脳みその疲れまで流れ出ていきそうです。
きらめきを生む照明にまでこだわっている笠原さんは、白色の電灯は一切使わず暖色系に統一しました。
キリッとした中にも、温かみが感じられるのはそのためです。
お湯がいいから「なにもない」を追求できる
『松の湯』にはサウナどころか、人気の炭酸泉やシルキー湯もありません。ここまで引き算をすると、素材である水質がとても重要になるはず。
「120mの深さから組み上げた天然の地下水を使っていて、化粧水にも使われるメタケイ酸が多く含まれているお湯です。美肌効果が高いのはもちろんですが、お客さんからは『自転車で15分かけて帰っても湯冷めしなかったよ』という声もいただいています」と笠原さん。
内湯には3つの浴槽。あつ湯から水風呂まで温度の変化をつけているため、アトラクションがなくても退屈することはありません。
さらに、時期によってどの浴槽をどの温度にするかまで変えて、繰り返して来ても飽きない工夫がされています。
むしろ、ジェットバスにあつい湯が向いていないことを考えると、アトラクションをつけないことでの自由度が生まれているのです。
デザインは装飾ではなく機能だ
レイアウトをよく見てみると、中央に洗い場があります。
東京の銭湯は、浴槽奥の壁に寄りかかって入浴すると、洗い場が見渡せるようになった作りが一般的。
しかし洗い場にいる時に、他のお客さんからの目線が気になることもありますね。
その点を解消するためのアイデアが、このレイアウトです。
中央の洗い場の背面が目隠しになっていて、目線が気になるという小さな不満を自然に解消してくれています。
さらに洗い場の奥には、「ファミリーブース」なるスペースが。
筆者も小さな息子を連れて銭湯に行くことがありますが、その際に何度も口にするのが「他の人にお湯がかからないようにしてね!」というセリフ。
物理的に距離を離すことで、そのリスクを減らし子供を連れていてものびのびと銭湯を味わうことができるようになっているのです。
他の洗い場は固定のシャワーですが、ここだけホースのついた可動式なのもありがたい配慮。
ジェットバスをあえて外に設置したワケ
奥の扉を出ると露天風呂。都心の銭湯で外の空気が感じられるのはありがたいですね。
こちらには、ジェットバスがついています。
「私は本当はつけたくなかったんですが、さすがに要望が多いですからね(笑)。あえて外につけたのは、内湯の静けさを保つためです」と笠原さん。
徹底した「なにもなさ」の追求に頭が下がります。
『松の湯』では、熱い湯と冷水に交互に入る「温冷交代浴」が楽しめます。サウナと同じように“ととのう”感覚も得られ疲労回復にも。
露天風呂に置かれたベンチは外気浴としても使えるため、サウナがなくても不足を感じることはありません。
先代が描いたという富士山の絵を眺めながら風に当たるのはとても気持ちいいものです。
こうして話を聞いて感じてみると、『松の湯』は「なにもない銭湯」ではなく「“なにもない”がある銭湯」だと感じました。
スケジュールも物理的にも情報量もありすぎる今、その疲れを癒やしに出かけてみてはいかがですか?
写真・文=Mr.tsubaking