地域の人に親しまれていた三浦按針
もちろん、架空の世界を散歩するわけにはいかないので前編同様、日本にやって来て徳川家康に重用され、日本史上唯一の外国人領主となった「青い目のサムライ」、ウィリアム・アダムス=三浦按針の足跡を訪ねてみた。後編は按針が治めた三浦半島の、横須賀周辺へと足を向けることにしよう。
横浜から三浦半島、横須賀方面へと向かう場合、JR横須賀線と京急本線を利用するのが一般的。そして京急本線には、横須賀中央駅よりも横浜寄りに安針塚駅と逸見駅がある。按針は家康から天領であった三浦郡逸見村250石の領地を拝領したので、まさにこの両駅周辺が、按針ゆかりの地である。
まず安針塚駅で京急線を下車、標高133mの小高い山の上に広がる塚山公園を目指す。
この公園には、三浦按針の墓である安針塚が立てられているのだ。安針塚駅は山の斜面に築かれていて、駅前は住宅が少しあるだけの静かな環境。ここから公園までは、2つのルートが辿(たど)れる。ひとつは駅を出てすぐ左に曲がり、線路をくぐりそのままほぼまっすぐに登る急な道。もうひとつは駅前交番の前の道を右に折れ、京急ストアの前をそのまま直進。次の信号を右へ折れて、コモンヒルズ安針台という大きな集合住宅群の中を抜ける道を登っていくルートだ。
こちらの方が楽そうと踏んだ私は、迷わずこっちをチョイス。
ところがマンション群を抜ける道は意外に登りがきつく、喘ぎつつフラフラ登る。ふと振り返ると、横須賀の街や港の絶景が眼下に広がり、一瞬にして疲れが吹き飛んだ。やがてマンション群の先で旧本町山中道路をくぐると、舗装はされているものの畑を抜ける畦道のような雰囲気となる。すぐに左に下る山道があり、案内板には「京急逸見駅」とある。
そこからしばらく登ると、塚山公園へと入っていく。この公園は桜の名所としても知られているようなので、次回は天気の良い桜の季節に訪れてみたいものだ。さくら谷、中央広場を抜ければ、目指す三浦按針の墓、安針塚へ続く石段が現れる。登り切った場所に、三浦按針とその妻の供養塔があった。
按針は元和6年(1620)、長崎の平戸で病没しているが、生前に「自分が死んだら江戸を望める高台に葬るべし、そうすれば永く江戸を守護し、将軍家の御恩に報いることができる」と遺言していたという。そのため江戸城を望める山の上に塚を建てたのが、安針塚塚の始まりとされる。
江戸幕府の鎖国政策により、江戸時代に塚は放置された状態であったが、明治の初め横浜に在住していたイギリス人の中で、ウィリアム・アダムスの遺跡や口碑(こうひ)を探したいと望む者が現れた。
そして明治5年(1872)、英貿易商のゼームス・ウォルタ氏が、逸見村の浄土寺で三浦按針夫妻ものとみられる2基の宝筺印塔(ほうきょういんとう)を発見。そこで荒れ果てていた塚の修復を計画する。その後、何度か大規模な修復が行われ、大正12年(1923)に安針塚は三浦按針の墓として国の史跡に指定された。
逸見地域に残る菩提寺も訪ねたい
塚山公園からの帰路は、先ほどの逸見駅方面へ下る道を辿った。しばらくは自動車が通れない狭くて急な山道を辿り、最後は階段を降りると住宅地外れに出た。そこから国道16号方面へ向かって進むと、左手に鹿島神社が見えてくる。
この社は常陸国(茨城県)にある鹿島神社を勧請、祀っている。応永17年(1410)の創建で、最初は鹿島崎(現在は海上自衛隊横須賀基地)に祀られていた。三浦按針の子が社殿造営に尽力した記録が残されている。奉納した棟札もあったが、その社殿は明治24年(1891)に焼失、棟札も失われた。そして明治28年(1895)、現在地に遷座されている。
鹿島神社のすぐ隣には、三浦按針の菩提寺である浄土寺がある。鎌倉時代の武将、畠山重忠の建立と伝えられている古刹で、本堂は正徳2年(1712)に建てられた、横須賀市内で最も古い木造建築のひとつ。最初は天台宗であったが、十一世住職の頃に本願寺蓮如上人に帰依し、浄土真宗に改宗している。
按針の念持仏観音像や、按針が朱印船貿易で東南アジアから持ち帰ったと伝えられる貝葉経(ばいようきょう)などが伝えられている。これらの寺宝は、通常は一般公開されていないが、三浦按針の法要が行われる毎年4月には、公開されることがある。浄土寺には「三浦按針の会」事務局も置かれている。
浄土寺から再び鹿島神社前を通り、南に向かえば逸見駅だが、その前に国道16号へと向かうことにした。浄土寺や鹿島神社へ続く道と国道16号が交わった汀橋交差点の脇に、安針塚への道標が立っているからだ。
明治38年(1905)から大正10年(1921)にかけ行われた安針塚修理事業の一環として、大正10年2月15日にJR横須賀駅前、国道16号汀橋近く、安針塚登り口の3カ所に立てられた。この角柱の道標には、いずれも日本語と英語で安針塚までの距離が記されている。
国際貿易港だった浦賀に残る按針の足跡
横須賀周辺から少し足を延ばして、京急本線の終点・浦賀駅へと向かった。
駅から徒歩20分、細長い形をした浦賀港には、港を挟んで東西に叶神社がある。その東叶神社正面入口には、江戸時代の初めにこの港へスペインのガレオン船が寄港していたという、史実を伝える石碑が立てられている。
三浦按針が指揮を執り、伊東で建造されたガレオン船「サン・ブエナ・ベンツーラ号」が太平洋横断のために船出したのも、この浦賀港からであった。後には伊達政宗の遣欧船「サン・ファン・バウティスタ号」も、スペイン国王使節を乗せ、この港に入港した。
三浦按針は母国イギリスとの通商成立にも尽力し、来日から14年目に成立まで漕ぎ着けたが、その3カ月後の慶長18年(1613)12月、バテレン追放令が公布される。元和2年(1616)にはよき理解者だった家康が亡くなり、さらに貿易港が長崎と平戸に限定されてしまう。そのため按針も平戸への移住を余儀なくされたのである。こうして一時は長崎と並ぶ東国一の貿易港だった浦賀は、その使命を終えたのであった。
東叶神社から隣接する東林寺付近までを、「按針屋敷」と呼ぶ言い伝えが残っている。こうしたことからも、浦賀を国際貿易港とするために、按針が活躍していたことをうかがい知ることができるだろう。だがこの地の名が再び歴史上で脚光を浴びるのは、幕末の黒船来航まで待つことになる。
取材・文・撮影=野田伊豆守