今ものどかな田園風景が広がる生誕地
重忠が生まれたとされている場所は、現在は「畠山重忠公史跡公園」となっている。近くに荒川が流れ、周囲はいかにも肥沃そうな農地が広がる、とてものどかな地だ。高い建物がほとんど見当たらないので、空がとても広く感じられる。
クルマでアクセスした場合は、関越自動車道の花園インターから5分ほどの距離。しかもさほど大きな公園ではないのに、しっかり駐車場が用意されている。電車を利用しての散策の場合は、秩父鉄道の武川駅が起点となる。駅から約40分の距離。ほとんどがのどかな田園風景内を通る道で、途中には重忠が再興し、菩提寺とした満福寺もある。
『源平盛衰記』には鵯越の逆落としの際、愛馬を損ねてはならないと、大力の重忠は馬を背負った、とある。園内にはそれを再現した像が建っていて、来園者を迎えてくれる。さらに園内には重忠や、家臣らの墓と伝わる五輪塔も残されている。田園風景の中にポツリとある小さな公園だが、見応えは十分だ。
そしてもうひとつ、埼玉県内で行っておきたい重忠関連の地が、隣りの嵐山町に広がる比企丘陵のほぼ中央、都幾川の流れを眼下に望む地に残されている「菅谷館跡」だ。ここは重忠が居住していたと伝わる、貴重な中世の城館跡である。その遺構は、東武東上線の武蔵嵐山駅から徒歩15分の『埼玉県立嵐山史跡の博物館』の隣に広がり、丘陵一帯で見ることができる。
鎌倉幕府の有力御家人となった重忠は、生まれた地である畠山郷から鎌倉街道の要衝であった菅谷の地に移り、館を構えたのであった。広範囲に残されている遺構は本曲輪、二の曲輪、三の曲輪など、そしてそれらを防御するための土塁、空堀など。だがここまで大規模な城郭となったのは、戦国時代になってからと言われている。天文15年(1546)、後北条氏の三代目当主氏康による奇襲戦、河越夜戦に北条方が勝利して以降、後北条方の城として戦国末期まで利用されていたからだ。
菅谷館の二の曲輪土塁上には、コンクリート製の「畠山重忠公像」が建っている。これは熱烈な重忠崇拝者であった儒学者の小柳通義(1870〜1945)が、昭和4年(1929)に地元有志の協力を得て、建立したものである。
平服で鎌倉方面を臨む姿からは、坂東武者の凛々しさとともに、心ならずも謀反人とされてしまった悔しさも滲み出ているようだ。
権力闘争に巻き込まれてしまった悲劇の将
幕府の有力御家人となった畠山重忠は、比企一族を滅ぼした際にも、北条方として戦いに参加している。比企氏の変と呼ばれるこの事件が起きたのは建仁3年(1203)9月のこと。重忠が攻め滅ぼされる事の発端は、その翌年の元久元年(1204)11月に起きた。
それは平賀朝雅の京の館でのこと。朝雅は、北条時政とその後妻・牧の方の娘婿。その朝雅と畠山重忠の嫡男・重保が口論となったのである。怒りが収まらない朝雅は義母の牧の方に愚痴をこぼした。すると牧の方に怒りが飛び火し、彼女は時政にそれをぶつけた。その結果、時政は畠山父子に謀反の疑いをかけ、誅殺しようと決意したのだという。だがこれは表向きで、政権内で絶大な人望を誇った重忠を、時政が危険視したと思われる。
そして元久2年(1205)4月、時政は重忠を追討するために御家人を招集。6月には息子の義時、時房に重忠追討計画を伝える。この時、義時は「重忠は忠誠心が厚い武士なので、謀反など起こすはずがない」と、異を唱えたと『吾妻鏡』に記されている。
だが牧の方の兄から、強く説得されたことで、賛同しないわけにもいかなくなり、重忠追討に参加したのだった。そして6月22日、源実朝が発した謀反人討伐の命を受け、鶴岡八幡宮方面に向かっていた畠山重保が、時政が手配した者たちにより討ち取られてしまう。
同じように鎌倉に招集されていた重忠は、二俣川付近に差し掛かったところで息子重保が討たれたことを知る。そして自分を追討するための大軍が迫っていることも察知したが、本拠の菅谷館に引き返し体制を整えることをせず、そこで潔く迎え撃つことにした。
この時、重忠が率いていた軍勢はわずか134騎。一方、義時が率いた鎌倉方には足利、小山、安達、八田、宇都宮、河越といった有力武士団数万騎が揃っていた。まさに多勢に無勢だったが、戦いは激戦となり、重忠が討たれるまでに4時間以上を要したというのだ。この戦いは後世、「二俣川の合戦」と呼ばれているが、その跡地は相鉄線の鶴ヶ峰駅周辺に点在しているのだ。
住宅地に残る二俣川合戦の史跡群
鶴ヶ峰駅北口を出てまっすぐ歩くと、小さな商店街を抜けすぐに車道とぶつかる。そこを右に辿れば、5分ほどで鶴ヶ峰駅入口の交差点に至る。その交差点脇に「二俣川合戦の地」「畠山重忠公終焉の地」と書かれた杭があるのが目に入る。
その一画に、重忠没後750年の昭和30年(1955)、終焉の地に建立された「重忠公碑」がある。これは出生地にも建てられている。その隣りに生えている竹は、重忠が「我が心正しかれば、この矢に枝葉を生じ茂繁せよ」と、2本の矢を地面に突き刺した。その後、毎年竹が2本ずつ増えた、という「さかさ矢竹」の言い伝えにちなみ、重忠没後800年の平成17年(2005)に植えられたものだ。
そこから少し駅側に戻った住宅街の一画には、重忠の「首塚」がある。重忠の最期は弓の名手・愛甲三郎季隆の放った矢に射られとされている。その後、首をとられ近くの井戸で洗い清められ、鎌倉に運ばれている。そのため、首塚には首ではなく兜や鎧が埋葬されたと言われている。
またその周辺は、鎌倉に通じる「中の道」と呼ばれた街道筋で、帷子川(当時は二俣川と呼ばれていた)を渡る場所であった。川幅が広く、橋も架かっていなかったため、武士たちは鎧を頭上にかざして川を渡った。そのため「鎧の渡し」と呼ばれた。
鶴ヶ峰駅から15分ほど歩いた場所には、重忠をはじめ一族郎等134騎が埋葬されたと伝わる「六ツ塚(六つの土饅頭)」があった。現在は薬王寺の境内となり、地蔵尊が建てられている。寺の建物内には、重忠と内室の菊の前の位牌が祀られている。
薬王寺の先にある谷を下ると、重忠が陣を構えた際に湧いていた水で墨をすったと伝わる「すずり石水跡」の碑がある。今では湧き水は見当たらないどころか、周囲はすべて住宅が建ち並んでいる。近所の人も知らないほど、忘れ去られている史跡なのだ。
再び高台まで登り、鶴ヶ峰浄水場と鶴ヶ峰神社の間を通る道を辿る。そこには重忠の内室であった菊の前が、合戦の報に接してここまで急行したが、重忠の戦死を知り自害。乗ってきた駕籠ごと埋葬された「駕籠塚」が、ひっそりと佇んでいる。
鶴ヶ峰駅を起点として畠山重忠終焉の地を巡る散策コースは、1周で4km弱。ゆっくり回っても2時間ほどだ。ということで、すぐとなりの二俣川駅から徒歩15分ほどの場所に建つ「畠山重忠公遺烈碑」にも足を延ばした。
碑が建つ場所の周辺に、北条軍が重忠を討つために数万騎で陣を敷いたという。明治時代、そんな状況でも正々堂々と戦った重忠の武勇を偲んだ、地元の有志57人が建立した。
金沢八景近くに建立された重忠ゆかりの寺
鎌倉の近くにある重忠ゆかりの場所で忘れられないのが、釜利谷にある「東光禅寺」である。寺伝によれば、重忠の開基により、弘安5年(1282)に建長寺第六世大興禅師を講じて開山。本尊は重忠の念持仏であった薬師如来。脇仏は左に日光、右には月光の二菩薩、さらに十二神将を従えている。
京浜急行の金沢八景駅から徒歩25分、さらに寺から20分ほどで朝比奈切通しの入り口に至るので、合わせて散策するのがいいだろう。
鎌倉で繰り広げられる権力闘争も、いよいよ大詰めが近づいてきた。
次回は北条義時とともに草創期の幕府を支え続けた、和田義盛の最期とゆかりの地を巡りたい。
取材・文・撮影=野田伊豆守