皆々、息災であるか!前田又左衛門利家である。此度の戦国がたりは久方ぶりの史跡探訪である!!此度訪れたは今、大いに盛り上がっておる関ヶ原古戦場じゃ!大河ドラマ『どうする家康』にてこの地で起こった大戦が描かれている。世界三大古戦場にも数えられ、世界に轟くこの地は訪れたものを楽しませるよう様々に整備がなされておる。早速紹介致そうではないか!

各地で起きた“関ケ原”の戦い

天下分け目の関ケ原の戦いであるが、関ケ原で起きた戦いが全てではない。

西軍は徳川殿の留守を狙い大坂で兵をあげ、徳川方の城を攻め落としながら東に軍を進めておる。

鳥居元忠殿が壮絶な討死をとげた、伏見城の戦いは知っておる者も多いのではなかろうか。

東軍も関ケ原での決戦の前に、福島正則らは西軍の織田秀信様が守る岐阜城を攻め落としておる。秀信様は信長様の嫡孫三法師様のことであるぞ。

こういった前哨戦に加え、各地で親徳川派と反徳川派に別れて戦をしておった。

 

その中から此度は西軍上杉家と東軍最上家が激しく争った慶長出羽合戦について話してまいろう!

北の関ケ原、慶長出羽合戦

この戦を詳しく語る前に、関ケ原の戦いが起こった経緯をおさらいいたそう。

秀吉亡き後、跡継ぎである秀頼様が大きくなるまでは「五大老」がかわりに政治を行うことになっておった。

その中で筆頭格であった徳川殿が専横を始めたのじゃな。

禁止されておったにも関わらず、多くの大名と婚姻関係を結び関係を強めるなど徳川家に与する勢力を増やしていったのじゃ。

この勝手な振る舞いをなんとか抑えつけておったのが儂、前田利家であるが、程なくして儂が死ぬと徳川殿の独裁はさらに加速していった。

これをよく思わなかったのが他の五大老である。

中でも明確に対立の意を示した上杉景勝殿の領地、会津を征伐するべく、徳川殿が会津へ向かうと、その隙に石田三成ら反徳川の勢力が兵をあげた。

これが大まかな流れである。

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この時の会津征伐は徳川本隊が南から、そして東北に領土を持つ最上や伊達といった親徳川派の大名たちが北側から上杉を攻める算段になっておった。

徳川殿が三成の挙兵を知って引き返したため、徳川と上杉の戦は起こらなかったのじゃが、無論これでは徳川軍が上杉軍に対して背を向けることとなるわな。

畿内へ急ぐ徳川軍の背後を突けたら戦は一気に優位に進む。

 

……のじゃが、上杉にはそれができぬ理由があったのじゃ。

それが先に申した会津の北側で兵を整えた最上家の存在である。

徳川家を追って進軍すれば自らも最上家に背後を突かれる恐れがあった。

では兵を残して進軍すれば良いと思うやも知れぬが、そうもいかなかった。

というのも秀吉による配置換えによって、上杉家はかつて治めた越後からこの会津に移っておったため、未だ領民の支配が盤石ではなかったのじゃ。

しかも徳川方の最上や伊達は東北の地を長く治めており縁が深いため、地理に明るいのは勿論、伊達家や最上家が兵を挙げれば会津の領民が肩入れし一揆や裏切りが起こりかねぬ状況であった。

ゆえに背後の憂いを断ってから動きたかったというわけじゃな。

 

そして幸運なことに、徳川殿が畿内へ軍を返したことで東北の大名たちの多くは自らの領地へ戻っていった。

伊達家とも和睦を結び、残るは最上家のみ。

最上さえ倒せば安心して徳川軍を追いかけられるという状況となった。

しかも上杉家の領土120万石に対して最上家は20万石と少し、さほど時間もかからずに中央の戦に向かえると思っておったのかも知れんな。

無論、関ケ原の本戦が半日で終わることを考慮しなければであるが。

最上家の関ケ原

では次に最上家の視点でこの戦を語ってまいろう。

まず前提として最上家は上杉家に対して強い恨みを持っておる。

領地を接する上杉と最上は元々良好な関係ではなかったのじゃが、秀吉に臣従した上杉が最上の領土を攻め、領土を奪われてしまったのじゃ。

最上家が領土を回復する間も無く秀吉の奥州仕置によって領土の確定と私的な戦を禁じられた。

最上家からすれば勝ち逃げされた形になるわけじゃな。

こういった背景をもつ最上家にとって会津征伐は旧領を回復する絶好の機会であった。

更に最上家当主である最上義光(よしあき)殿は東北勢の大将として諸大名の指揮を取ることとなった。徳川殿が畿内へと引き返した後、その背を追いたい上杉家を足止めすれば大きな武功である。

義光殿としては東北の大名たちを束ねて上杉を相手取る算段であったのじゃろうが、しかしそうもいかぬのが東北の難しいところじゃ。

義光殿の像と、本拠地の山形城じゃ。
義光殿の像と、本拠地の山形城じゃ。

最上家と伊達家の確執が代表的であるが、東北の大名家はそれぞれがそれぞれに因縁が深くてのう。一枚岩とはならないのじゃ。

義光殿からすれば一軍の長として軍配を振いたいところであろうが、他の大名からすれば徳川殿の命に従ったまでで、徳川殿が撤退した以上、私怨も含まれる最上家の戦に付き合うつもりはなかったのじゃ。

連合軍を指揮して戦に臨む予定が、5倍の石高を持つ相手に一人で立ち向かわねばならなくなった最上家は窮地に立たされることとなった。

上杉家は重臣・直江兼続を大将として2万5千の大軍で攻めよせ、対する最上は7千ほど、最上方の不利は明白であった。

長谷堂城の戦いと伊達家の救援

前線となる最上方の支城はそれぞれ1000に満たぬ兵で上杉方に落とされ、本拠である山形城を守る要の城、長谷堂城も上杉軍に囲まれる。

この時の上杉軍は1万8000、最上方は1000と絶対絶命である。

じゃが上杉によって落とされた城の最上方が寡兵であるにも関わらず奮戦し、上杉軍に多くの損害を出して上杉方の士気を下げておったことや、長谷堂城を守る志村光安殿や鮭延秀綱殿の一騎当千の活躍、そして伊達家による援軍と最上家本隊の到着によって持ち堪え、早々に終わった関ケ原の本戦の報せを受けた上杉軍が撤退したことで最上家は窮地を脱したのであった。

最上家と長きにわたって確執のあった伊達政宗が最上家に援軍を送ったこの戦は、現世に続く政宗人気の理由の一つでもあろうな!

所々で政宗は度量を見せるでな、憎めない奴じゃ。

 

さて、上杉が退いたことで一件落着とは参らぬ。

やられっぱなしで気が済まないのが最上家である。

撤退する上杉を義光殿が先陣を切って猛追したのじゃ。

じゃが、今度は上杉方が大奮戦する。

属する西軍が関ケ原の戦いに敗れ、存亡の危機に立たされて大混乱に陥っても不思議ではない環境で大将・直江兼続は見事に軍を操った。

上杉方の将である水原親憲や、上杉に身を寄せていた我が甥・前田慶次の奮戦で凌ぎ切り領土へと帰ることができたのじゃ。

この戦いで城を守った最上軍と、撤退戦の折の兼続殿の戦さぶりは戦国史でも指折りの戦いぶりで両家共に武名を世に知らしめる戦であったと言えよう。

して、最上家は上杉家を足止めしたことの功で倍以上の57万石の大藩となり、反対に上杉家は大きく領地を削られ30万石に収まった。

両家の明暗を分ける戦となったわけじゃな。

終いに

もう一つの関ケ原、長谷堂城の戦いの話は如何であったか!

関ケ原の本戦に勝るとも劣らない激しい戦、なかなか見所があるじゃろう。

此度は紹介できんかったが、九州では復活を期す大友家が蜂起して黒田官兵衛と衝突しておるし、北陸では東軍に与した我が前田家と西軍に与した丹羽家が浅井畷(あさいなわて)で衝突した織田家旧臣対決が起こっておる。

現世ではどうしても中央の歴史が多く語られるが、無論東北や四国、九州の歴史や戦も見るべき所が多いでな、興味を持ってくれたらばうれしく思う。

して、重ねてになるが催しで盛り上がっておる岐阜県の関ケ原にも足を運んでみてちょうよ。

もしかしたら推しの武士が見つかるやも知れんでな!

此度の戦国がたりはこれにて終い。

また会おう、さらばじゃ!!

文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)