この夏は仕事が山積みだし、不要不急の誘いもたくさんあるし、お気になさらず。どうぞどうぞと、送り出したあとの家の中はがらんどう。なんだか物悲しくて仕事をする気も起きず、家でいつもの酒を垂らして高校野球。青春に目が眩み自分ひとりだけが世の中にいらない人間に思えてしまっていた昼下がり、突然、この連載の前担当者で、現在は新聞社のカメラマンをやっている佐藤七海から連絡がくる。
「埼玉の幸手にカルビ丼をメインにした新形態のチェーン店ができたんですよ。夏の思い出作りにいきませんか?」
この野郎……いくら元担当とはいえ、夏の盛りにカルビ丼の新規店に誘いをかけてくるなぞありえない。俺がカリブ海に行きそびれてフテ寝していることを聞きつけた有能か。それとも新しい職場に居場所がないのかのどちらかだろう。
季節はお盆だ。止められながら去った町であらば、故郷の散歩へ帰ることも許してくれよう。
七つの海との名を持つ元担当と埼玉の国道を旅に出る。今宵俺らはかるびの海賊。夜の街は冒険のリバー口。両サイドに色とりどりの色彩を帯びたチェーン店を映す。あ、『すたみな太郎』の海賊だ。『ジャンクガレッジ』の豚が笑っている。大きな宮。深い谷。白い岡。見たことのない鳥料理の店がピピピと歌い、何でも揃う『ドン・キホーテ』の激安ジャングルでひと休み。かるびのお宝目指して、夏しかできないとびきり極上のバカンスだ。
『ばんどう太郎』、『坂内』、『フライングガーデン』……過ぎゆく顔触れに北関東色が濃くなってきた。そろそろ目的の地、ハッピーハンドの杉戸高野台。カルビのお宝が登場だ。
ときめく国道の旅。「領収書は散歩の達人につけてくださいね」
“牛かるび丼 スンドゥブ専門店 かるびのとりこ”。
だだっ広い駐車場に蜃気楼のように輝く看板が見えた。隣には偉大なるエルドラド『𠮷野家』が見える。そう。この『かるびのとりこ』は『𠮷野家』の系列だ。
『𠮷野家』の東京工場はここから目と鼻の先の加須にあるので、試験店としてこの場所に店を出したのだろう。メインはカルビ丼とスンドゥブ。牛肉の買い付けや冷凍技術も『𠮷野家』で長年培った技術を応用しているそうだが、『𠮷野家』のカルビ丼とはまったくの別物だとか。
メニューはカルビ丼が2種類。「牛かるび丼」と上カルビがのった「二種牛かるび丼」。サイズは小・並・大・横綱・理事長の角界基準。ビビンバも入っているが、理事長サイズは立浪部屋(中日の方)も真っ青の白米の量。
「そんなに食べちゃよくないよ」
七海が悲しそうにつぶやいた。
しようがないよ。だって米が多いんだもの。
「領収書は『散歩の達人』につけてくださいね」
カリブにいる子供からメールがある。色鮮やかな南国のフルーツとトロピカルドリンク。現地の料理が並んでいる。
俺は肉色に鈍く光る理事長サイズのかるび丼と、血のように赤いスンドゥブの写真を送り返す。
フロムジャパン。ニュートラディショナル——。
これは韓国ではない。「最後の一滴までうまい」と謳(うた)うスンドゥブのベースになるスープは、『𠮷野家』の工場でトリミングした肉や野菜などの食材を利用して、じっくり炊き上げられているもの。『𠮷野家』イズジャパントラディショナルのクオリティだ。
ついでに冷麺もこの店の人気商品だというのでズルズルとすすっていたら、再びカリブの息子から白い大蛇を首に絡ませた笑顔のいい写真が送られてくる。ああ、楽しそうだ。この夏の経験が、彼をひとつ成長させているのだなぁ。一生の思い出に残る旅になるんだろうなぁと考えたら、涙がにじんだので丼に顔をつっこんだ。
『かるびのとりこ』は『𠮷野家』の10年ぶりの新業態なのだとか。「松屋」に「すき家」ほかにも似たような業態の店も出ているが、最大の敵は『𠮷野家』の牛丼である。それを乗り越える気概がなければ、いつか見た焼き牛丼の運命だ。
おそらく、これから全国へと展開を広げていくのだろう。ならばもっとこい。悔し涙も、親の情も、世の中の何もかも忘れてしまって、夏の思い出が肉と米しか残らないぐらい、おまえのカルビでメロメロにさせてほしいのだ。
文=村瀬秀信
『散歩の達人』2023年10月号より