『丸十』だけど『丸十』じゃなかった
『三鷹丸十ベーカリー』はJR三鷹駅の北口から歩いて10分ほどの井ノ頭通り沿いにある。通りには車が多く行き交うが、周囲は緑が多く、いわゆる武蔵野の田園っぽさが色濃く残る。
『三鷹丸十』は今では珍しい対面販売。ケースに並べられたパンは、アンパンやチョココロネ、サンド類など昔ながらのパンに加え、とうもろこしとれんこんのかき揚げサンド250円など、ちょっと変わったメニューも並ぶ。このへんは4代目の小松悠さんが加えたのだとか。
1919年創業となれば、店の歴史を聞かざるを得ない。この話が、東京のパンの歴史に引っかかっていて、かなり面白いのだ。
聞いてみていきなり驚いたのが、『三鷹丸十』のルーツは『丸十』ではないこと。
まず『丸十』を簡単に説明すると、田辺玄平氏が日本で初めてドライイーストで発酵させたパンを開発してスタートしたベーカリーのことだ。最初は1913年に東京の下谷黒門町の店から始まり、そこで学んだ職人たちが各地で店を始め、現在も多くの店が残っている。
だが『三鷹丸十』の初代・小松喜助さんは、『丸十』グループではなく、「三河屋」の神谷町店で働いていた。「三河屋」というのは『丸十』と同じく大正期の東京で展開していたベーカリーのグループ。いわば、『丸十』のライバルなのだ。なぜ「三河屋」から『丸十』に変わったかといえば、戦争があったからだ。
太平洋戦争の空襲で「三河屋」は焼けてしまう。働く場所を失ってしまった喜助さんに、パン職人の仲間が「一緒に働かないか」と声をかけてくれたのが、虎ノ門にあった『丸十』だったのだ。喜助さんはここでしばらく働き、1951年、親族のつてで、三鷹に『三鷹丸十ベーカリー』を開くことになったのだ。
店のまわりは畑ばかり
三鷹で店を始めたときは二代目の喜十さんも一緒にやっていたのだが、なにしろ周辺は畑ばかり。ただ、西久保周辺には軍関係の人が住む屋敷が多くあり、喜十さんはそこにせっせとパンを配達し、店を切り盛りしていたという。その後、武蔵野電機などの工場が近くにでき、そこにもパンを卸すようになり、商売はようやく軌道に乗る。
その喜十さんは、パンを発酵させるのに米麹を使っていたのだという。『丸十』ならば、田辺氏が開発したドライイーストを使っていたのかと思えば、そうではなかった。ほとんどの昭和のベーカリーは、保存がきいて発酵の安定するドライイーストを使っていたのだが……。米麹を使ったのは、ドライイースト独特の匂いを、嫌ったのかもしれない。お客さんに喜んでもらえるパンを作りたいという、強い思いがあったのだろう。
数年前には閉店の危機も
今もお客さんのため、という思いは変わらず、酵母は米麹。さらにショートニング、フードモルト、乳化剤や保存のためのビタミンCは使っていない。体のことを気遣ったパンは子育て世代のお客さんにも評判がよく、定番商品のジャーマンブレッドはミルクに浸して赤ちゃんに食べさせるなど、離乳食代わりにしているお母さんもいるようだ。
現在は3代目の和久さん、4代目の悠さんの2人でやっている『三鷹丸十』だが、和久さんは創業100年の区切りで店を閉めることを考えていたという。悠さんは当時、サラリーマンだったのだが、店の伝統をつなぎたいと考え、2018年、退職して店を継ぐことにした。おなじみのパンにプラス、新しいメニューを開発しているのは、さらに歴史を刻もうという気持ちからだ。
『三鷹丸十ベーカリー』は今も変わらず、お客さんに身近なパン屋であり続けようとしている。近年は『丸十』も数を減らしつつあるが、この先も長く続けてほしいものだ。
取材・撮影・文=本橋隆司