三年ぶりの戦国時代を描いた大河じゃ。
そのうえ主役が徳川家康殿じゃ!
本人もえらく喜んでおったぞ。
儂としても我らが生きた時代に焦点が当たるのは誠うれしい限りじゃ!
そこで此度、皆々がより戦国時代を知り楽しむことができる話を記して参ろうではないか!
題して『前田利家 戦国がたり』である!
これより一年、『どうする家康』に関わりがあったりなかったりする、戦国についての豆知識や裏話を記して参る!!
史跡探訪も考えておるぞ!
記念すべき第一回は、儂、前田利家の紹介と徳川殿の関わりを簡単に振り返るぞ!
今後の連載でも時代が分からなくなったら此度の記事を参考にするとよい!
前田利家って?
改めて自己紹介と参ろう!
我が名は前田又左衛門利家である。
尾張は荒子に生まれ、織田信長様の家臣として数多の大戦に参陣いたした。
槍にて多く手柄を立て、『槍の又左』の名でも呼ばれておった。
同じく信長様の家臣であった豊臣秀吉とは若い頃から仲がよく、家族ぐるみの付き合いであった。その後の秀吉の天下では五大老として政を担い、加賀と能登、越中を治める!
現世においては加賀百万石として知ってくれておる者も多いのではなかろうか!!
この辺りが儂の大まかな生涯である、では続いて儂と徳川殿との関わりを紹介いたそう!!
前田利家と徳川家康はどのように生きたのか?
徳川殿とともに、儂らの歴史を振り返ってみよう。
1537年
1542年
岡崎で誕生。利家殿とは5歳差であるな。
1547年
儂の妻、まつが尾張海東郡にて生誕。
織田家の人質となったのがこの年じゃ。さらに1549年には今川家の人質となる。
1551年
萱津の戦いにて初陣。元服し孫四郎利家に改名した。
1555年
元服し元康と名乗る。瀬名姫と結婚したのもこの頃じゃな。
1558年
まつと結婚。このとき儂は21歳、まつは数え12歳(満11歳)じゃ。
この年に初陣。寺部城の戦いという。
1559年
織田家を出仕停止(解雇)となる。とある事件が関わっておるのだがこれはまたいずれ。
1560年
桶狭間の戦い。織田信長様が今川義元公を討ち取った戦いとして、今でも有名であろう。儂は織田方として参陣しておった。
儂は今川方としての参陣じゃ。
1561年
織田家に復帰が許される。戦での働きが良かったため、信長様も許してくださったのかのう。
信長様と同盟を結ぶ。世に言う清洲同盟じゃ。
1572年
三方ヶ原の戦いで、儂、前田利家の弟・佐脇良之が戦死。徳川殿も武田軍に敗北。
1575年
長篠の戦い。武田軍との最後の戦いじゃ。
1582年
この年の6月2日早朝、本能寺の変が起こる。
1583年
賤ヶ岳の戦いが起きる。この戦ではどちらの味方に付くか大いに悩んだ。
加賀を拝領し金沢城に入ったのもこの年じゃ。
1584年
小牧・長久手の戦いが勃発。秀吉と徳川殿の戦いじゃ。儂、前田利家は秀吉方で戦っておったぞ。
1586年
秀吉様の臣下となったのはこの年であった。
1590年
小田原征伐に従軍。この後、徳川殿は江戸に移封となる。
1596年
権大納言に任ぜられる。
内大臣に任ぜられる。
1598年
秀吉が伏見城にて没し、儂も徳川殿も、ともに五大老として政治の中枢を担うようになる。
1599年
大坂にて没する。儂の没後、まつは人質として江戸へ降った。
利家の死後、加賀征伐を企図する。
1600年
儂の嫡男・利長が関ヶ原の戦いにて東軍に属し加増を受ける。これにより前田家は百万石の大々名になった。
関ヶ原の戦いに勝利。事実上の天下人、となった。
……とまぁ、徳川殿と共に振り返って参ったがそれを表にするとこのようになる。
さて、ここからもう少し詳しく、儂と徳川殿の関係性を語っていこうかのう。
利家と家康、敵陣営として相対した桶狭間
儂が生まれたのは天文六年(1537年)、徳川殿は天文十一年(1542年)、儂が5歳年長である。
誕生日は儂が12月25日、徳川殿が12月26日と1日違いである!
何か因果を感じなくもない。
初めて徳川殿と関わったのは桶狭間の戦い。
儂は織田軍、徳川殿は今川方の将であった。徳川殿は大高城の守りを任されておったが故に直接戦ったわけではないがな!
じゃがこの戦の前から儂と徳川殿は因果があった。
徳川殿は今川の将として織田家との戦に参陣したある戦で、篠原主計という名の武士を討ち取ったのじゃが、その篠原主計様は我が妻、まつの実の父であった。
つまりは徳川殿はまつの父の仇、故にまつは徳川殿を苦手としていたのう。
然りながら、まつは父を亡くしたことにより、我が前田家にて養育することになり、儂との婚姻にもつながった。見方によれば徳川殿が儂とまつを結びつけたともいえるであろう。
なんとも不思議な因果であるわな!
信長様のもと、ともに戦場をかける!!
桶狭間の戦いにて信長様が大勝利を収め勢力を拡大していくのと裏腹に、敗れた今川家の勢力は衰退していった。
そんな主君を見限った徳川殿は独立を果たし、織田家と同盟を結ぶこととなる。
徳川殿は人質時代に信長様と知り合っており、馬があったのやも知れんな !
織田家と徳川家が同盟関係になったことによって、信長様のもと槍働きに励んでおった儂は、今度は味方同士として戦場をかけることとなる!!
姉川の戦いや長篠の戦いが代表的じゃな!!
肩を並べた五大老時代
儂と徳川殿が深く関わることとなったのは、秀吉が天下統一を成し遂げた後の事。豊臣政権の二大巨頭として、秀吉を共に支えたのじゃ。
信長様の一家臣に過ぎなかった儂が、外様の最大勢力を誇った徳川殿と並ぶことができたのには理由がある。
農民から身を起こした秀吉は信頼をおける忠臣が少なかった。
そこで秀吉と古くからの友であった儂が、外様の勢力に対抗するべく抜擢されたのじゃ!
徳川殿が豊臣家に仇なすことのないよう目を光らせることはもちろんのこと、時には力を合わせて政に取り組んで参った。
晩年、失政を度々起こした秀吉に諫言できる大名は、儂と徳川殿の他にはほとんどおらなかったでな。油断はできぬが心強い同僚であった。
秀吉が没した折には、儂が次期当主の秀頼様の後見、徳川殿が政務を仕切るようにと遺言を残した。じゃが儂も老いから来る病に体を蝕まれていた。徐々に専横の気を見せ始める徳川殿を抑えつつ、秀吉の家臣を取り纏めるのが儂の最後の戦であった。
天下泰平の世へ
儂の死後、徳川殿はいよいよ天下を狙い動き始める。
豊臣家臣に大きな影響力を持っていた我が前田家へも圧力をかけたのじゃ。
儂の跡を継いで秀頼様の傅役であった利長を加賀に追いやるだけではなく、謀反の疑いをかけ、加賀征伐を計画するのじゃ!!
窮地に追い込まれた前田家であったが、戦を好まない利長はまつを江戸へと人質に送ることで加賀征伐を事前に防ぎことなきを得た。
その後の関ヶ原の戦い、豊臣家の行末と徳川家による天下泰平の世は皆の知る通りじゃ。江戸時代には多くの外様大名が改易や減封の憂き目にあったが、我が前田家は幕末まで大大名として続いていくことが叶った。
以上が儂と徳川殿に関する大まかな歴史の流れである。
此度は簡単な紹介に留めたが、この後一年を通して、徳川殿の一生を楽しく掘り下げて参る!!
次回は徳川殿の幼少期、人質時代について記す予定である。
此度の戦国がたりはこれにて終い!
さらばじゃ!!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)
この年、荒子城で誕生。