憩いの広場の裏手にひっそりある試射施設跡
茂みの真ん中に小道が伸び、そこを歩くと、左右に守衛所の壁のような遺構に出合いました。監的塀(かんてきへい)と呼ばれるものです。監的塀にテストする兵器を設置して、50m先にある射入窖(しゃにゅうこう)目掛けて試射することで、弾の速さや鉄板の貫通試験などを行いました。監的塀には左右それぞれ二つの小窓があって、そこから試射したそうです。のっぺらな姿に小窓が二つあるから、無愛想なヌリカベのように見えますね。
ところが、肝心の射入窖が見当たりません。50m先にあるのですぐ見えるはずですが、見渡す限り木々と小道のみ。いぶかりながら先を進むと、ありました! 戦後70数年間に植物が成長して、本来は直線上で見えるはずの監的塀と射入窖の間には木々が茂っていたのでした。
射入窖は「窖(あなぐら)」と書くあたりから想像できますが、人工の洞窟みたいなもので、蒲鉾状の分厚いコンクリート造りとなっています。中心部は大人一人分が中腰で立てられるほどのトンネルとなっており、7〜8mの長さがあって行き止まりです。ほんとにアナグラですね。
穴の地面には砂が敷かれており、最初は海岸線から砂が舞い込んだのかなと思ったのですが、周囲には砂らしきものがそんなに見当たりません。人工的に砂を詰めて、弾丸のストッパー的役割をしたのではないでしょうか。試射された弾は射入窖の中へ入り、止まらねばなりません。内部の行き止まりの壁には弾痕らしきものが見当たらなかったため、たぶんそうでしょう。表面の崩れている箇所は経年劣化か、弾が逸れて当たった弾痕かと思われます。
この射入窖の外観は、一見すると坑道の入り口か墓所と思う構造で、穴の中は暗いし、外側のコンクリートは崩れかけている箇所があるし、少々おどろおどろしい雰囲気もします。弾丸などとうに無いので安全といえば安全なのですが、ちょっと身構えてしまいますね。きっと機関銃などのテストに使用されたのでしょう。機関砲となると車輪が付いて大型になり、監的塀の間の幅や小窓からはちょっと無理なんではないかなと推測しました。
松林に囲まれて遺跡のように佇む草の生えた監的所
射入窖を見学した後は、さらに先へ進みます。小道はやがて二手に別れ、最初は違うところへ迷い込んでしまいましたが、本道らしい小道を歩いていくと、説明看板が現れました。前回紹介した旧ザク風の監的所は林の奥にありましたが、ここは看板の先にすぐ見つかりました。階段状の遮蔽壁が確認できます。
監的所は背を向いており、松林に囲まれてポツンと佇んでいます。古代遺跡の礼拝所が眠っているような雰囲気を感じました。コンクリートはだいぶ黒ずんでおり、石積みの重厚感からそのように感じたのかもしれません。階段状の遮蔽壁の形状もどこか遺跡を連想させます。近づいてみます。
旧ザクのものとは異なり土中には埋もれておらず、随分と背の高い印象があります。足元は50cmほどの土台があり、内部への入り口は跨いで上がるには少々しんどいほどの高さです。階段でもあったのかと思いましたが、どうやらそんな痕跡はない。思うに、現役時代は土台を覆い被せるほど土を盛っていたのではなかろうか?
内部は前回見たものと同じ構造で、3箇所の監視窓が連続しており、大人が4人も立てば狭いです。天井はドーム状になっていますね。内部は土も混入しておらずきれいでした。
それにしても。目を見張るのは外観です。旧ザクとはまた異なり、お椀状の天井部分には、まぁなんということでしょう。毛が生え……いや、草が髪の毛のように生えています。器用な誰かがいたずらして、上部に土を盛って草を生やしたのではないかと思ってしまうほど、見事に生えているのです。
偶然にしては出来過ぎの「毛の生えた監的所」。よーく目を凝らすと、木の根がびっしりとお椀状のコンクリートに張り付き、一生懸命に葉を広げているのです。植物の生命力に感心してしまいました。いつも廃墟へ訪れると、頑丈な構造物から草木が空へ向けてすくすく育っている光景に出くわし、その度に感心させられるのです。人間の造ったものは、自然界ではひとたまりもありませんね。目の前の監的所は、自然界が作り出した植毛です。その姿に感動し、しばし言葉を失っていました。
監的所を離れた位置から、周囲の松を入れて観察します。ミーアキャットがサバンナで二足になって背伸びして警戒するシーンが頭をよぎりました。監的所の形状は全然ミーアキャットに似てないけど。
そして再び近づいてみると、遮蔽壁の隙間から木の幹が確認できました。どうやらこの幹が緑の毛を生やしているようです。生命力って、ほんとうに素晴らしい。幹が生えている内側はどうなっているのか、監的所内部へ再度入りましたが、木が生えている様子はありません。おそらく遮蔽壁の僅かなヒビから生えてきているのでしょう。このまま10年20年と経つと、監的所全体は草木で覆われてしまいそうですね。
以上で、長くなった富津4部作は終了です。富津公園は路線バスもあり、これからはいい陽気の日も増えてくるので、東京湾を眺めつつ散策するにはちょうどいいでしょう。
[余談]富津試験場にあった試製大型兵器のその後
富津試験場の遺構は、ほかにも「イテ塔」と呼ばれる機関銃の俯角発射試験施設の痕跡、元洲堡塁砲台時代に離れた場所に設置された観測所跡、試製四十一糎榴弾砲の弾道観測などに使用された観測所跡があります。また近年に閉鎖立入禁止となった富津岬荘の駐車場は、試製四十一糎榴弾砲の砲座があったとのことです。この試製榴弾砲は飛距離5万メートルを誇り、南へ向けて試射し、房総の西海岸沿いには弾道観測所が点在していました。
富津試験場には試製四十一糎榴弾砲のほか、仏・シュナイダー製九〇式二十四糎列車加農砲もテストされていたことは、前々回の記事に軽く触れましたが、この2つの巨大兵器は富津で終戦を迎えませんでした。大戦中、満ソ国境付近の虎頭要塞へ向けて分解され中国大陸へ渡り、昭和17(1943)年、秘密裏に虎頭要塞へ配備。ソ連のイマン河鉄橋(現在のダリネレチェンスク)を狙い、対ソ戦の決戦兵器として温存されていました。
試製四十一糎榴弾砲は対ソ戦の始まった翌日の昭和20(1945)年8月9日、3年の月日を経て遂に火を放ち、シベリア鉄道の鉄橋を破壊する任務を果たします。終戦直後の8月19日に砲身が炸裂するまで砲撃を続けました。これらの詳細は、佐山二郎著「日本陸軍の火砲 機関砲 要塞砲 続」(光人社NF文庫)に記載されています。なお、九〇式二十四糎列車加農砲も虎頭要塞付近に展開していましたが、移動のために分解中に対ソ戦が勃発したため実戦に加わることはありませんでした。
この二つの巨大兵器は、戦後ソビエトに接収されたようですが行方知れずです。試製四十一糎榴弾砲は、ソビエトが運搬中にイマン河口で放置したとのことですが、近年の調査では見つけられなかったと、前出の佐山氏の著作に記述されていました。巨大兵器は今も旧虎頭要塞付近に遺棄されているのでしょうか。それを追っていくのは容易成らざることでしょう。
取材・文・撮影=吉永陽一