『赤いハイヒール』(1976年)と東京駅八重洲口
八重洲中央口改札を出るとすぐ、天井から吊るされた巨大な鈴が目に飛び込んでくる。昭和44年(1969)に設置された2代目の銀の鈴は、昭和時代の終わり頃までこの場所にあった。まだ、携帯電話はない。人混みの中で待ち人と出会うために「待ち合わせはこの場所で」と書かれた鈴の下で、人々がひしめき合うように立ち尽くしている。
『赤いハイヒール』(作詞:松本隆、作曲:筒美京平)の少女はそんな光景を眺めながら、鈴の下を通り抜け地下に通じる階段を降りる。八重洲地下街も、銀の鈴が設置されたのと同時期に二期工事を終えて完成していた。田舎町の商店街がすっぽり入る地下の大空間。薄暗いアーケード街とは違って、煌めく照明の下に並ぶ店々の商品は魅力的に映ったはず。そこで買った赤いハイヒールを履いて、東京の街を闊歩する自分の姿を想像する。夢踊る都会生活の初日だった。
しかし、並以上のスキルや財力を持たない者は、やがて都会生活の厳しさに直面するだろう。それは容易に想像できる。踵が取れたハイヒールが放置されたままという歌詞の一節にも、彼女の都会疲れが見てとれる。
修学旅行や観光で訪れた東京は輝いていた。どこもかしこも、浦安にある夢の国のように映ったのかもしれない。が、実際に暮らしてみれば……6畳一間のアパートの家賃は、田舎で一軒家を借りるよりも高い。それを払うために、満員電車に揺られながら働きつづける日々。夢と現実の違い、能天気な観光客と生活者の違いを思い知らされる。
吉田拓郎『制服』(1973年)と東京駅地下道
八重洲口から丸の内口へ。新幹線ホームに近い八重洲口近辺は、キャリーケースをガラガラ引きずった旅行者が目立つ。あちこちからこだまする声のトーンも甲高く、日常から開放された高揚感が駅構内にもあふれていた。一方、大勢の乗降客が行き来する同じ東京駅構内でも、丸の内口のほうは雰囲気が落ち着いている。
八重洲口では2人連れやグループを多く見かけたが、こちらは1人で歩いているのが多数派。会話は聞こえてこない。発車時刻が迫り焦って走る者、何かを探してキョロキョロする者もみかけない。勝手知った場所を目的地めざして歩く「押し黙ったままの人込み」。これが都会人の日常のテンションだろう。
吉田拓郎の『制服』(作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎)で歌われた東京駅の雰囲気もそんな感じか?
昭和48年(1973)6月にリリースされた『御伽草子』のアルバムのなかに、この曲が収録されている。新幹線の改札口へ向かう途中の地下道で、東京駅に着いたばかりの集団就職の娘たちを見かけた。その印象を唄ったものだ。
当時、吉田拓郎は高円寺に住んでいたはず。70年代フォーク・シンガーの多くが、同様に高円寺や阿佐ケ谷といった中央線近辺を根城にしていた。作詞者の岡本おさみもそうだろうか? しかし、中央線ホームから降りたコンコースは地上1階。「地下」ではないのだが……。
昔の東京駅コンコースは飲食店などの店舗も少なく、照明はもっと暗かったという。「地下道」と錯覚するような、殺風景な眺めだったのかな?
曲が聴かれた昭和48年は、第一次石油ショックが起きた年。日本人もいまのように不景気に慣れてない。高度経済成長のイケイケな雰囲気に冷水を浴びせられ、大きな不安にかられていた。
この頃になると「集団就職」という言葉にも暗い印象がある。高校進学率は90%に達し、中卒で働くことが「普通」ではなくなっていた。中学卒業したばかりの娘が親元離れて就職するのは「何か大変な事情があるのだろう」と想像してしまう。歌詞もそんな印象で書かれている。
時代背景とか彼女らをとりまく状況とかは、暗くて陰鬱な地下が似合ってそう。だから、作詞家はそこが地上1階ということを知りながら、あえて「地下道」としたのかもしれない。たぶん。
集団就職の辛い現実については、すでに田舎でも広く周知されていた。『あゝ上野駅』が流行った60年代とは違って、改札口の先にある東京の街に夢や希望を抱くことはできなかっただろう。
20世紀の丸ノ内、空は広かったのだが……
地下道から地上へ。バロック様式のドームが印象的な駅舎が見える。しかし、『赤いハイヒール』や『制服』が唄われた当時の外観は、もっと貧相なものだった。昭和生まれにはその印象のほうが強い。
空襲で半壊した駅舎は、終戦直後の突貫工事で修復された。資材不足のため被害甚大だった3階部分の復元は諦めるしかない。2階建にして簡素な屋根を乗せて、工事は昭和22年(1947)に完了している。その姿で65年間。丸ノ内に通勤するサラリーマンは、急場しのぎで復旧された駅舎を毎日眺めながら会社に通った。
東京駅の3階部分や南北のドーム屋根が復元されて、戦前の姿を取り戻したのは平成24年(2012)のことだった。この頃になると、高層ビル群が駅舎を囲むようにして聳える現在の丸ノ内の風景もほぼ完成している。
2000年代以前の丸ノ内の空は、もっと広かった。旧建築基準法で制限された高さ31メートルのラインで、ビル群が整然と並ぶ様。戦前は「東洋一のオフィス街」と、自画自賛した眺めでもある。しかし、戦災を生き残った建造物は、70年代になるとさすがに古ぼけた感じなっていた。また、昭和49年(1974)には三菱重工ビル爆破事件が起きて大量の死傷者が発生。その記憶も生々しい頃だった。イメージが悪い。
若者たちが抱く丸ノ内のイメージはさらに悪い。ムキになって社会や大人たちに反発するのが、なんとなくカッコ良い。そんな当時の若者気質には、嫌な大人たちの巣窟と映って背を向ける。『赤いハイヒール』の娘も、丸ノ内は眼中になかったと思う。けど、そんな場所が若者たちに熱く支持されるアーティストの歌になる。
椎名林檎『丸の内サディスティック』(1999年)と失われた10年
椎名林檎の『丸の内サディスティック』(作詞作曲:椎名林檎)を収録したアルバム『無罪モラトリアム』がリリースされたのは、世紀末間近の平成11年(1999年)。バブル景気が弾けて「失われた10年」といわれた頃である。この近辺が歌になるのはいつも不況の時代……か?
終身雇用制度の崩壊が話題になっていた。丸ノ内の一流企業に勤務する者も安泰ではいられない。リストラの嵐が吹き荒れ、中高年社員は肩叩きに怯える日々。丸ノ内界隈では、ヤサグレた感じでタバコ吹かして歩く中年サラリーマンの姿がよく見かけられた。当時の喫煙率は50%以上、一服しながら語らうタバコは、社会人男性には欠かせぬコミュニケーション・アイテム。路上喫煙が咎められることもない。朝の通勤時ともなれば、会社へと向かうサラリーマンの群れが吐きだす紫煙に街が霞む。歩道の排水口は吸殻であふれた。古いビル街がいっそう薄汚れて見えたりもする。
若いOLには楽しくない場所だったろう。だから仕事が終われば、さっさと電車に乗ってこの場所を立ち去る。御茶ノ水の楽器店で物欲しそうにギターを眺め、池袋でしつこいナンパにからまれて終電逃しそうになりながら、翌日はまた丸ノ内のオフィスで我慢の労働。OLの安月給では買いたい物も買えずに、都会生活の疲れだけが蓄積されてゆく。
赤いハイヒールで満足していた娘よりも、さらに疲労困憊して精神が病みそう。貧しかった70年代と比べて、満足のハードルが高くなっている。しかし、庶民レベルの財力ではとても追いつかない。都会生活の理想と現実のギャップは広がるばかり。
2000年代にはビルの高さ規制が撤廃されて、丸ノ内界隈は高層ビルの建設ラッシュ。再開発が急速に進む。余裕のできたオフィスビルには、ショップや飲食店のテナントが多く誘致された。街路は洒落た石畳になり、広い歩道沿いにはパリの街を彷彿とさせるカフェテラスが並ぶ。
もはや、くわえタバコで歩けるような雰囲気ではない。街には女性の姿が目立つようになった。OLたちが嫌悪した、古く薄汚れたオフィス街の様相は一変。彼女たちの趣味に適ったショップやレストランもあちこちにある……が。2000円以上もするランチには躊躇してしまうだろう。休日の「観光」ならいいのだが、彼女たちには日々の生活の場なだけに。財布の紐は固くなる。
都会生活を本当に楽しむことができる者は、ごく限られている。駅や街がどんなに美しく変貌しようとも、その厳しい現実が変わることはない。
取材・文・撮影=青山 誠