『君の名は』(1952年)

銀座のはずれ、数寄屋橋の向こうがわ

かつて、有楽町と銀座は外堀川によって分断されていた。川に架かる数寄屋橋は、番組放送時間に銭湯の女湯が空になるという伝説を残したラジオドラマ『君の名は』(昭和27~29年)の名舞台。昭和28年(1953)には映画も公開されている。

ストールを頭から巻いた「真知子巻き」の女性たちが、数寄屋橋の上にもよく見かけられた。橋の欄干にもたれて有楽町側を見れば、朝日新聞東京本社が水に浮かぶようにそびえ立っている。隣には日劇の王冠を象ったアールデコ調の建物も見える。

映画の名シーンにもなった眺めは、真知子コスプレイヤーたちの記念撮影には絶好の背景。だが、彼女たちにはその眺めが「有楽町」だという認識はない。

数寄屋橋があった場所には、当時を偲ぶ写真がコンクリートに埋め込まれていた。
数寄屋橋があった場所には、当時を偲ぶ写真がコンクリートに埋め込まれていた。

数寄屋橋阪急百貨店を横目に眺めながら、橋を渡って有楽町エリアに入る。と、王冠を模した日劇の建物が目に飛び込んでくる。付近には、他にも日本有数の規模を誇る劇場や映画館がならぶ。外堀川沿いに松竹ピカデリー、山手線の高架を越えた有楽町一丁界隈には日比谷映画劇場、有楽座、東京宝塚劇場、等々と……しかし、

「ここって、銀座じゃなかったの?」

そんな感じ。数寄屋橋を渡って銀座を離れたことに、何人気づいたろうか。

ラジオドラマ『君の名は』の脚本家・菊田一夫の筆による碑文。
ラジオドラマ『君の名は』の脚本家・菊田一夫の筆による碑文。

『星の流れに』(1948年)

闇市と娼婦が客待ちする高架下。駅前は近寄りがたい“魔窟”だった

人々が思う「有楽町」は、実際のエリアよりもずっと狭く、駅前近辺のごく限られた空間だった。その界隈の猥雑なイメージが強烈すぎて、劇場や映画館といった文化的な場所とは結びつかない。

日劇や朝日新聞東京本社がある晴海通りから一歩裏手に入った通りには、パチンコ店や居酒屋が立ち並ぶ。戦災を生き残った表通りの重厚な防火建築群とは違って、簡素で薄っぺらなモルタルの木造建築が目立つ。

さらに駅前まで歩を進めると、建物はさらに粗末なものに。1〜2畳ほどの間口しかない寿司屋や居酒屋、スタンドが密集する細い路地。終戦直後の闇市から発展した飲食街なのだが、終戦後10年以上が過ぎたこの頃もまだ、闇市の危なく怪しい雰囲気を濃厚に残していた。

 

有楽町駅近くの高架下。かつては銀座へ向かう進駐軍兵士を待って、多くの娼婦が立っていたという。
有楽町駅近くの高架下。かつては銀座へ向かう進駐軍兵士を待って、多くの娼婦が立っていたという。

昭和23年(1948)に公開された映画『肉体の門』でも、主人公の娼婦たちが有楽町駅付近の廃墟を根城にしていた。

実際、占領期は駅付近の高架下に、映画の挿入歌『星の流れに』(歌:菊池章子)を口ずさみながら、大勢の娼婦が立っていた。日比谷の占領軍施設で働く米兵たちは、この高架をくぐり抜けて銀座の盛り場へと向かう。客待ちには絶好の場所だった。

米兵たちが去って数年が過ぎたこの頃も、丸の内に勤務するOLたちは、有楽町駅前に足を踏み入れない。アフターファイブに銀座へ向かう時にも、ここを避けて手前の有楽橋を渡って西銀座通りに抜ける。

娼婦がたむろする高架下、酔客の嬌声が響く暗い路地裏。それが、当時の狭く小さな「有楽町」に抱く人々のイメージ。しかし、それではまずい……イメージを変えなければ。『有楽町で逢いましょう』が作られた目的は、じつはそれだった。

「有楽町であいましょう」(1957年)

耳に残って離れない魅惑の低音ボイスが 「有楽町」のイメージを変えた

戦後の大発展を遂げた東京には、関西のデパートが次々に出店してくる。大丸は八重洲、阪急は数寄屋橋。大阪に本拠を置く老舗のそごうも東京進出を目論んでいたが、出遅れて用地の確保に四苦八苦。やっと見つけた場所が、丸の内側の有楽町駅前で建設が進んでいた読売会館だった。

読売新聞の印刷工場を建て替えた地上9階のビル。その商業スペースとなっている1〜6階を賃借して、そごう有楽町店を開店することになった。しかし、人々が有楽町駅前に抱くイメージを払拭しなければ、客層として狙う上品なご婦人方には敬遠される。

イメージ・チェンジを狙う一策として、アメリカ映画『ラスヴェガスで逢いましょう』を真似た「有楽町で逢いましょう」というキャッチフレーズを作り、開店のキャンペーン・ソングとなったのが『有楽町で逢いましょう』だ。

 

キャッチフレーズをそのまま歌のサビにした曲は、そごうがスポンサーの音楽番組で頻繁に聴かれるようになる。開店直前の新聞広告にも「有楽町で逢いましょう」の大きな文字が踊っていた。

「有楽町で逢いましょう」

と、フランク永井が魅惑の低音ボイスで囁きかける。そのフレーズが耳に残って離れない。有楽町駅前のイメージを刷新するインパクトがあった。曲のヒットで街の印象はがらりと変わった。

昭和32年(1957)5月25日、そごう有楽町店は開店する。歌詞と同様に雨がしとしと降っていたが、店には30万人もの人々が押しかけた。入り切れない客が駅の改札口から列をなす大盛況だったという。

三方を道路に挟まれた不整形な敷地に、苦肉の策として設計された三角形の建物。しかしそれがよかった。駅改札口を出ると、その独特の形状が目に飛び込んでくる。街を象徴するランドマーク。「有楽町で逢いましょう」と誘われたら、そこが格好の待ち合わせ場所にもなった。

 

「そごう有楽町店」が入っていた読売会館。現在は家電量販店になっている。
「そごう有楽町店」が入っていた読売会館。現在は家電量販店になっている。

待ち合わせ場所の駅前のデパートから日比谷に入れば、劇場や映画館もある。銀座との境にある数寄屋橋からは、水に浮かぶビル群の眺め。愛を囁くには絶好の場所だった。デートスポットとしても意外と使える。『君の名は』の名シーンに映っていた場所もまた、有楽町だったことを皆があらためて知る。駅前の路地は、有楽町のごく一部でしかないのだ。人々の意識に新しい「有楽町」が植えつけられた。

『西銀座駅前』(1958年)

景観の激変、銀座の侵食……ふたたび影の薄い存在に

街のイメージ・チェンジは成功した。が、それを長く維持するのは難しい。直後に激変が起こる。

年が明けて昭和33年(1958)になると、銀座との境界を分かつ外堀川が埋め立てられた。川は首都高速の高架下に沈んでしまう。水に浮かぶビル群の眺めも消えた。やっと認知されるようになった有楽町の名所だったのだが。

9月には首都高の高架下にショッピングモールが開業されたのだが、その名称は「西銀座デパート」である。陸続きとなった曖昧な境界線に“銀座”が侵食してきた。

この年に発売されたフランク永井の新曲タイトルも『西銀座駅前』。有楽町が唄われることはなくなり、人々の意識からはそのエリアが再び縮小してゆく。

昭和37年(1962)には、映画『銀座の恋の物語』が大ヒット。石原裕次郎と牧村荀子がデュエットした主題歌も売れた。映画には数寄屋橋交番などが登場し、歌碑もまた銀座と有楽町との境界線付近に立っている。

しかし、この頃になると「有楽町」を誰も意識しなくなっていた。「銀座の外れ」に戻った、そんな感じだろうか。

数寄屋橋から眺めた日劇、朝日新聞本社、松竹ピカデリー。水辺にあったビル群も消滅し、跡地には昭和59年(1984)に複合ショッピング施設「有楽町センタービル」が開業した。

銀座から有楽町方面を望む。かつては日劇と朝日新聞本社ビルが並んで立つ眺めが見られた。
銀座から有楽町方面を望む。かつては日劇と朝日新聞本社ビルが並んで立つ眺めが見られた。

近代的なガラス張りの外壁が光り輝く、バブル期の浮かれた時代を象徴する建物。「有楽町マリオン」の通称も浸透していた。が、そこが境界線を越えた「有楽町」という意識が人々にはあったか? 銀座の外れ。そう見てしまう。

また、ランドマークとして「有楽町」を意識させていた有楽町そごうも、平成12年(2000)9月24日には閉店した。そごうに替わって入店した家電量販店は、立地のイメージなど気にしない。駅に隣接する利便性があればそれでいい。新たなキャンペーンソングは必要なかった。

「有楽町で逢いましょう」

そんな合言葉、もはや誰も囁かない。

昭和28年の有楽町。数寄屋橋が架かる外堀は、現在、首都高速の高架と西銀座デパートに。また、外堀沿いの朝日新聞と日劇は、有楽町マリオンになっている。
昭和28年の有楽町。数寄屋橋が架かる外堀は、現在、首都高速の高架と西銀座デパートに。また、外堀沿いの朝日新聞と日劇は、有楽町マリオンになっている。

取材・文・撮影=青山 誠

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