新宿中村屋創業者の著作も無料!
街歩きで青空文庫を使うときの1つのコツは、「Aozorasearch 青空文庫全文検索」という検索サイトを使って、目的の地名を検索してみること。たとえば筆者の住む新宿界隈の地名だと、「新宿」で420件、「四谷」で323 件、「牛込」で359件、「荒木町」で11件の作品がヒットした。
なお検索結果は、検索した言葉の数が多い本の順に並ぶ模様。「新宿」で検索したときは、『新宿中村屋』創業者の相馬 愛蔵(1870~1954年)、相馬 黒光(1876~1955年)夫妻の著作『一商人として ――所信と体験――』がトップにヒットした。
1901(明治34)年に本郷でパン屋として創業した中村屋は、1907(明治40)年に新宿に支店を出店。2年後に現在の新宿中村屋本店の場所に移転しているが、『一商人として』にはその頃の新宿の街の様子が描かれていて面白い。たとえばこんな具合だ。
新宿の見すぼらしさは、いまどこと言って較べて見る土地もないくらい、町はずれの野趣といっても、それがじつに殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、電車は単線で、所々に引込線が引かれ、筋向かいの豆腐屋の屋根のブリキ板が、風にあおられてバタバタと音を立てているなど、こんな荒んだ場末もなかった。でもそれは新宿の外形であって、もうその土地には興隆の気運が眼に見えぬうちに萌していた。
(『一商人として ――所信と体験――』より)
そのほか、発展前の新宿の田舎っぷりが描かれている青空文庫の作品も簡単に紹介しておこう。
正岡子規(1867~1902年)『寒山落木 卷一』
1924~26年刊の句集の第一巻に「新宿に荷馬ならぶや夕時雨」との句がある。当時の新宿は、荷馬車で積み下ろしを行う労働者が目立つ街だった。
林不忘(1900~1935年)『魔像 新版大岡政談』
林不忘は小説家、翻訳家の長谷川海太郎のペンネーム。新宿について「お百姓と馬方と肥し車と蠅の行列だった」と言及あり。
正岡容(1904~1958年)『寄席風流』
作家、落語・寄席研究家として活躍した彼の1948(昭和23)年の著作には、「当時の新宿はひどい場末だつたこと、古の句の見附から馬糞のつゞく四谷かな――にも明らかだらう」などの言葉あり。
宮島資夫(1886~1951年)『四谷、赤坂』
「私が子供時分の新宿駅附近といったら、四谷見附と相対して、更に一層荒涼たるものだった」など新宿の思い出が綴られている。
新宿二丁目には芥川の父の牧場があった
では、新宿に関わりの深い有名文学者の著作も青空文庫でチェックしてみよう。まずは芥川龍之介の1926(大正15)年の自伝的な短編『点鬼簿』。少し長いが引用してみよう。
僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新らしかった果物や飲料を教えたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアップル、ラム酒、――まだその外にもあったかも知れない。僕は当時新宿にあった牧場の外の槲(こうじ)の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている。
(芥川龍之介『点鬼簿』より)
これは知る人ぞ知る話だが、芥川龍之介の父が経営していた牧場『耕牧舎(こうぼくしゃ)』は現在の新宿二丁目にあった。国友温太『新宿回り舞台』(1977年)によると、その牧場は「春になるとまるで花園のよう」な景色となったそうで、1902(明治35)年の頃の牧場の広さは7418坪。飼牛の数は108頭という大規模な牧場だった。
新宿の街の発展に伴い、その耕牧舎は臭気も強く周辺の環境にそぐわないことから移転命令が出され、跡地は原っぱに。そこに1913(大正)2年、太宗寺(たいそうじ)の南側の甲州街道沿いに軒を連ねていた遊郭が移転してきた。遊郭が移転した理由は、天皇や皇族がお出でになる新宿御苑近くの街道沿いに、妓楼(ぎろう)が連なっていることを問題視する声もあったため……とされている。
なお新宿を描いた作家としては林芙美子(1903~1951年)も有名だが、彼女の『放浪記』には「旅館、写真館、うなぎ屋、骨つぎ、三味線屋、月賦の丸二の家具屋、このあたりは、昔は女郎屋であったとかで、家並がどっしりしている。太宗寺にはサアカスがかかっていた」と、遊郭移転後の太宗寺周辺の描写もあった。
漱石も薬師丸ひろ子も登った太宗寺の仏像
もうひとり、新宿二丁目界隈に馴染みのある作家としては、あの夏目漱石(1867~1916年)がいる。下記は、漱石の自伝的作品とされる『道草』(1915年発表)の中の文章だ。
彼は時々表二階へ上がって、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。その仏様は胡坐(あぐら)をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖(しゃくじょう)を担いでいた、それから頭に笠を被かぶっていた。
健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後うしろから肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。
(夏目漱石『道草』より)
この描写は、漱石が太宗寺門前の塩原家に養子に出されていた幼少期の頃のもの。時代は明治の初頭だ。彼がよくよじ登った「大きな唐金の仏様」は、太宗寺の入り口に1717年に造立された銅造地蔵菩薩坐像だろう。
なお太宗寺の玉垣には「○○楼」という当時の妓楼の名前が複数残っている。かつて牧場があり、そこが遊郭街になり……という太宗寺の周辺の歴史は、青空文庫を読んで街を歩くだけでもかなり深堀りできるのだった。
なお、ここまでは明治~大正期の青空文庫の作品を中心に紹介してきたが、その後の時代の作品でも新宿に言及したものは多数。たとえば古川緑波(1903~1961年)の『古川ロッパ昭和日記』には、「母上と夜食しに新宿へ出た。紀国屋で新刊買って、天兼の天ぷら。軽くてうまい。上品ぶった花亭などより安いしうまい」と、今も小田急ハルク1階にある天ぷら屋が登場したりするのだ。
みなさんもぜひ馴染みの街の名前で青空文庫を検索し、歴史散策の堪能を!
取材・文・撮影=古澤誠一郎