はじめて入社した会社は、新橋にある求人広告の会社だった。フリーペーパーや求人雑誌、求人サイトの広告枠を店側に売る会社だ。求人業界最大手のR社の契約代理店で、本社は大阪にあり、東京営業所ができたばかりだった。

私は専門学校を卒業した22歳の4月に入社した。訳あって高校生を4年間やり、専門学校は3年制だったので、四大卒の友人たちと同じタイミングでの就職だ。しかし、新卒採用ではない。私は在学中に就職活動をしたが、どこからも内定をもらえず、卒業後の4月頭に中途採用枠でその会社に拾われたのだ。

なぜその会社を受けたのかというと、なにかしら文章に関わる仕事をしたいと思い、就活サイトで検索して見つけた。求人広告でも文章を書けるなら……と思い、原稿担当の枠に応募した。

しかし、内定を知らせる電話で意外なことを言われた。「性格検査の結果が非常に営業向きなので、営業担当で入社してほしい」と言われたのだ。

今思えば、メンタルが脆弱な私が営業に向いているわけはないし、その時点で断ればよかった。しかし、何十社も落ち続けてようやくもらえた内定だったので、私は二つ返事で承諾してしまった。どの会社からも「要らない」と言われ続けた私にとって、ようやくもらえた採用通知は光だった。

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東京営業所には27歳のやり手の所長と、系列の会社で長く働いてきたおじさん社員がいて、そこに私を含めた新人5人が合流した。

私を含めた営業担当の3人は「とにかくたくさんの店を回って名刺を配れ」と言われた。「まだ商品を売らなくてもいいから、まずは名刺を配りまくって飛び込み営業の雰囲気に慣れろ」という感じだ。

この名刺配りは通称「ビル倒し」と呼ばれ、首都圏のお店や企業では4月の風物詩になっている。ビル倒しをやっている子はR社の新卒だと思われがちだが、実際は私のように、R社の契約代理店の社員もいる。R社の契約代理店は都内だけでもかなりの数があり、その新卒が一斉に名刺を配りはじめるため、お店側としてはしょっちゅう若者が「ご挨拶させてください!」とやってくる。ふつうに迷惑だ。

私のいた会社では訪問先がかぶらないよう、営業担当の3人でエリアを分けていたが、お店側にとってはR社の契約代理店はどこも同じに見える。訪問すると、「また?」「さっきもあんたの会社の人が来たよ。迷惑なんだよね」と嫌な顔をされることが多かった。実際R社へのクレームも多いようで、長い長い「訪問NGリスト」が送られてきた。

私は、お店の人に嫌な顔をされるのが辛かった。上司である所長は体育会系の人で、「そんなん気にせんでええねん!」と笑い飛ばしたが、私は相手の言葉や態度の一つひとつを気にしてしまう。自分が傷つくというより、お店の人に迷惑をかけていることが申し訳なくて、その罪悪感が辛かった。

私は気弱なので、新宿・渋谷・池袋などのライバルが多い地域は避け、錦糸町や月島、九段下などで飛び込み営業をした。

朝、新橋のオフィスに行き、タイムカードを押して、会社のメンバーと顔を合わせる。特に朝礼などはなく、少し雑談したのちに資料や地図を持って営業に出る。

一人で電車に乗り、目的地の駅で降りる。どの駅も駅前にはだいたい商店街があるので、商店街のお店を端から一軒ずつ訪問する。カレー屋さん、ラーメン屋さん、もんじゃ屋さん、カフェ、コンビニ……。私は手当たり次第に訪問することができず、「バイト募集」の張り紙をしている店だけを狙って訪問した。チェーン店は求人広告の掲載を本社が一括でおこなっている場合が多いので、個人店やフランチャイズを狙う。

ガラス戸越しに店内を覗き、お店の人が暇そうであれば入る。そして、近くにいる人に声をかける。

「すみません、株式会社○○の吉玉と申します。求人広告のご担当者様にご挨拶させていただけますでしょうか?」

人見知りの私にとって、お店の人に話しかけるのは怖い。私はできる限りハキハキとしゃべっていたつもりだが、もしかしたら泣きそうな顔でオドオドしていたかもしれない。

名刺を出すと、相手の反応はさまざまだ。名刺を受け取って「じゃあ何かあったら連絡しますね」と社交辞令を言ってくれる人、「今忙しいから」と名刺を受け取ってくれない人、あからさまに嫌な顔をする人、従業員同士で顔を見合わせてくすくす笑う人。中には、目の前で受け取った名刺を捨てた人もいた。

お昼時になると飲食店は忙しくなるので、飛び込み営業ができない。気にせず営業する人もいるらしいが、私には無理だった。私はコンビニでサンドイッチを買って近くの公園などで食べ、ランチタイムの混雑が落ち着くまで時間をつぶす。そうして午後も飛び込み営業。気分転換に、午前と午後でエリアを変えることもあった。

夕方、新橋の会社に戻る。一日中ヒールの靴で歩きまわったからもうクタクタだ。けれど、脚よりも心が疲れている。埃っぽい匂いが充満したオフィスで、所長にその日の成果を報告する。

所長は名刺を何枚配ったか、詳しく追及してくることはない。「吉玉ちゃんも新宿とか、人の多いエリア行けば?」と言うものの、それを強制してくることもなかった。

定時で帰れるし、上司も同期もみんな気持ちのいい人たちだし、恵まれた職場だ。

だからこそ、頑張らなきゃと思った。

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頑張らなきゃと思うのに、根性のない私はどうしても頑張れなかった。

朝起きると吐き気がする。なんとか出社しても、営業に行きたくなくて山手線を何周もしてしまう。夜は明日のことを考えて眠れず、涙が出る。具合が悪くなるまでお菓子を食べなければ気持ちが落ち着かなくて、気づけば7㎏太っていた。どうしても会社に行けず、仮病を使って休んでしまう日もあった。

営業先でもいろんなことがあった。

「求人でお困りではないですか?」と言ったら、「だとしてもあんたに関係ないでしょ!」とヒステリックに怒鳴られた。

店員さんに「求人広告のことで連絡するかもしれないから携帯の番号教えて」と言われ、「アポが取れるかも!」と教えたら、しつこくナンパの電話がかかってきた。

変わった雰囲気の店主に延々とスピリチュアルな話をされ、「世の中には、その人を雇ったら客がじゃんじゃん来るような運命を持った人がいる。そういう人がおたくの求人広告で採用できるのか?」と詰め寄られた。

私は弱虫なので、そういうことがあるたびに泣きたくなる。所長のように、「気にしない」ということができない。まったく営業には不向きだ。

なのに、ビギナーズラックで契約が取れることがあった。しかもなぜか、同期の中で契約を取れるのは私だけ。契約の一歩手前のアポイントが取れることも多く、所長から「吉玉ちゃんはうちのエースや!」と持ち上げられた。そう言われて悪い気はしないけれど、褒められることがモチベーションに繋がる時期はもう過ぎていた。私はすでに、営業の仕事が嫌で嫌で逃げ出したくなっていたのだ。

最初に契約を取れたのはフランチャイズのコンビニで、駅から遠い上に、最低賃金だった。これじゃあ応募者が集まらないかもしれない。所長が間に入って「もう少し応募者が増えるような条件にできませんか?」と提案し(できる求人広告の営業はコンサル的なこともおこなう)、高校生不可のところが高校生OKになった。

契約が取れると嬉しい。原稿担当は同期のYちゃんだったが、所長が「吉玉ちゃんはもともと原稿担当やりたくて入ったんだし、自分で契約取った案件は原稿作っていいよ」と言ってくれた。私は張り切って、バイトを探している人が応募したくなるような文章を考えた……つもりだった。

しかし、その広告を掲載したフリーペーパーが街中に置かれても、応募者はゼロだった。

私は落ち込んだ。所長は「よくあることや」と慰めてくれたが、求人広告の掲載は決して安くはない。あのコンビニの店長さんは私を信頼して広告を出稿してくれたのに、私の原稿は効果がなかった。期待に応えられなかったのだ。自分が不甲斐なく、罪悪感で消え入りそうだった。

次に契約が取れたのは下町のもんじゃ屋さんで、そのお店は写真付きの広告枠を買ってくれた。

私は打ち合わせの際、店主に気に入られようと、自腹でその店のもんじゃを食べた。店主は「営業はいっぱい来るけど、自腹で食べていったのはあんただけだよ」と嬉しそうだった。

しかし、そのお店も求人広告の効果はなかった。正確には応募の電話が一件あったが、その人は面接に来なかったらしい。店主から不機嫌な声で、「あの応募の電話、あんたがサクラでも仕込んだんじゃないの?」と言われ、喉の奥がぎゅっとなった。

結局、私はたったの3ヵ月でその会社を辞めてしまった。

ブラックじゃないしパワハラもないのに、どうして頑張って続けられないんだろう。私はどうしてこうも、根性がないんだろう。

最後の出勤日、荷物をまとめて会社を出る。駅に向かって歩いていると、意識が朦朧としてきて倒れそうになり、交番のおまわりさんに「ちょっと休んでいきなさい」と声をかけられた。

そのときはじめて、新橋で泣いた。

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今の私はライターで、あちこちの媒体で自分の過去をネタにしたエッセイを書いている。しかし、この新橋での思い出は今まで詳細を書くことがなかった。思い出すだけで心が悲鳴を上げると思ったからだ。

けれど、今回この原稿を書いてみてわかった。喉元過ぎれば熱さも忘れる。今の私にとって新橋の思い出は、思い出すだけでヒリヒリするほどのものではない。傷跡は残っているけれど、もう血は流れていない、傷みのない傷だ。

どんな傷も、やがて痛まなくなる。そう信じていたい。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
札幌から上京したと言うと、よく「大都会で驚いたでしょ?」と言われる。しかし私は19歳で上京した当初から、東京の「都会さ」にはさほど驚かなかった。何度か東京に遊びに来ていたから知っているし、札幌も充分に都会だ。大自然に囲まれた土地から出てきたわけではないし、周囲が望むような「いかにもおのぼりさん」なリアクションはできない。それよりも驚いたのは、梅雨の湿度と夏の暑さだ。もちろん、関東に梅雨があることも、札幌より暑いことも知っていた。だけど、それがこんなにも辛いだなんて。どうして誰も、教えてくれなかったのだろう?
青春コンプレックスがある。たびたび書いているとおり、私は中2で不登校になり、通信制高校に進学した。当時の私は演劇に打ち込み、充実した日々を送っていたのだが、どうしても「絵に描いたような青春を謳歌してる人」に対しての羨望と嫉妬が拭いきれなかった。それがどういう人たちかと言えば、全日制の高校に進学し、「いつものメンバー」がいて、イベントごとにプリクラを撮る人たちだ。そういう人たちが羨ましくてたまらず、たびたび気持ちのやり場に困った。