ところで、廃村とは

今回は、いまは廃村になった村に住んでいた、ある思い出深いおじいさんの話をしたいと思う。

ところで廃村とは住人が離村し、無人の村になったところである。離村するにはいろいろな理由があると思うが、筆者の少ない廃村探訪の経験からすると、以下のようなことが主な理由ではないか。

その一 村まで行く道が、険しい登山道のような道や長い道など不便。

その二 水を手に入れにくい。

その三 近くに店がなく、食料などを容易に手に入れられない。

自給自足のできた昔なら暮らしていけたかもしれないが、いまではそれは不可能だ。“面影度”で言っても、廃村はかなり高いものがあると思う。

さて倉沢集落だが、最初に訪れたのはほぼ20年前。本誌の連載、『東京探険倶楽部』(*1)の取材だった。

そのとき、倉沢には95歳になる坂和連(さかわむらじ)さんというおじいさんがひとりで住んでいた。

山中の社宅に200人もの人が

倉沢の廃村跡。というよりここは奥多摩工業の社宅跡。日原地区に新しく社宅をつくったので、昭和40年ごろには無人になった。
倉沢の廃村跡。というよりここは奥多摩工業の社宅跡。日原地区に新しく社宅をつくったので、昭和40年ごろには無人になった。

奥多摩駅から日原方面へ行くバスに乗って倉沢で下車。バス停の先に「倉沢のヒノキ」へ行く登山道がある。ヒノキまでは標高差約100m。ふうふう言いながら上がること半時間。目の前に大きな巨木が現れた。千年のヒノキとも言われる巨木で、都の天然記念物でもある。樹齢は800年弱。樹高33m、幹周は6.3mもある巨木だ。その先から倉沢へ通じる道がある。集落まではほんの4、5分。

倉沢はもともと4軒ほどの集落だったが、戦前の昭和10年代に石灰石を掘る奥多摩工業の社宅ができた。集落の上部の段々畑のような土地を利用して十数棟の宿舎をつくり、最盛期には200人ほど住んでいたという。社宅には共同の浴場や食堂、診療所や理髪店などもあった。奥深い山中に突如小さな町ができたようなものだ。

それが昭和30年代の後半、日原に新しく社宅を建てたので、昭和40年ごろには無人となり、坂和さん以外の住民もそのころに離村したという。

最初に訪れたのは2002年。社宅はまだ健在だったが、3年後には解体されたようだ。
最初に訪れたのは2002年。社宅はまだ健在だったが、3年後には解体されたようだ。
解体後の2012年には食堂の竃や流しが残っていた。
解体後の2012年には食堂の竃や流しが残っていた。
理髪店の散髪用の椅子。
理髪店の散髪用の椅子。

先祖が住んできた地に住み続ける

後日、再度倉沢へ。今度はバス停からヒノキへは行かずに林道を歩いてまっすぐ連さんの家をめざした。

連さんはあかあかと薪が燃える囲炉裏端に座っていた。穏やかでやさしいおじいさんに見えたが、眼光の奥は鋭い。これは明治生まれのせいか、修験者の末裔のせいか。

そのときの様子を当時の筆者の記事から。

「『あなたは大正生まれかい?』
一瞬、耳が遠くなったのかと思った。でも連じいさんは確かにそう言った。
二度ほどリタイア組に思われたことはあるが、大正とはまた希代な。それは僕の親の世代であるよ、おじいさん。
『おじいさん、私は昭和で、それも戦後生まれですよ』
『おおう、じゃ、わしの一番下の息子くらいかな』」

連じいさんは高齢なので、時間の感覚が多少飛んでいたのかもしれない。戦後といったら、太平洋戦争ではなく「日清か日露かな」とも言っていたので、かなりの飛び具合だった。

連じいさんの話は、筆者が聞いたときからさかのぼること20年、瓜生卓造の『奥多摩町異聞』(*2)に詳しい。連おじいさんがまだ75歳のときなので、内容もしっかりしている。その本から少しなぞってみる。

連さんの先祖は埼玉県から来た修験者のようで、800年前に倉沢にやってきた。この倉沢の奥に鍾乳洞があり、先祖は鍾乳洞を守っていたという。鍾乳洞は倉沢権現として信仰を集めていたようだ。倉沢は近くの同じく埼玉県から来た日原の集落よりも古いと連さんは言っていた。

連さんは15歳で東京に出て教員の資格を取って倉沢へ帰り、氷川で先生になったが、一年で辞めた。理由は戦争に反対して日章旗を破り捨てたからだとか。骨のある人だった。

連さんはとにかく戦争に加担したくないので、仕事は嫌だったそうだが徴用されない警官になり、結局、昭和36年の定年まで勤めた。その後は倉沢に帰り、祖先が耕してきた畑で作物をつくるという生活に。ずっと土と自然を相手に暮らしてきたそうだ。

お会いした当時は週に2、3日は昭島の娘さんのところで過ごし、ほかの日は山に戻って来るという暮らしだ。

帰り際、連おじいさんは「柚子風呂にでもしなさい」と、持てないくらいの大量の柚子をくれた。柚子であふれんばかりの重たいザックをどうにか担いで、急な坂道を下った記憶がある。

お会いした2年後に連じいさんは亡くなった。

 

10年後、倉沢へまた出かけた。行ってみると、社宅も連さんの家もすっかり解体されていた。残っていたのは家のコンクリートの土台や竃かまど、流し、お風呂場など。理髪店の古びた椅子もあった。訪れたのは初夏のころだったので、社宅周辺は緑の中に埋没し、いまにも森に飲み込まれそうだった。

社宅跡からみた坂和連さんの家跡。
社宅跡からみた坂和連さんの家跡。
2002年、連じいさんがまだご存命のころの自宅。民宿を営んでいたので大きな家だった。
2002年、連じいさんがまだご存命のころの自宅。民宿を営んでいたので大きな家だった。

連じいさんの家にはタイルのお風呂場の一部だけが残っていた。昔、奥多摩工業に頼まれて民宿をやっていたので、大きなお風呂場だったのだろう。なんともせつない想いがよぎった。

解体後、タイル張りのお風呂場が残っていた。
解体後、タイル張りのお風呂場が残っていた。

後日、奥多摩駅そばの飲み屋で聞いた話がある。日原から来る常連の客で、

「家があると誰かが住んだりするので、連さんの家は私たちが解体した」ということだった。

連じいさんに会いに行ったとき、最後に聞いた話がよみがえる。

「おじいさんはどうして山を下りないのですか?」

「800年前から先祖代々住んできたところを離れるわけにはいかん」

修験者の末裔たちは、延々と鍾乳洞を守りながら、この地に住んできた。

それで目に留まったのが、昨年末に亡くなった渡辺京二さん(*3)を悼み、田中優子さん(元法政大学学長)が朝日新聞に寄稿した文だ。

「(渡辺さんが)講演でおっしゃった『人間は土地に結びついている。土地に印をつけて生きている存在である。死んだ人間の想いとつながっている』という考えを、私はずっと胸に刻んでいる」

連じいさんも倉沢の急斜面に印をつけ、死んだ祖先の想いとつながって生きてきたのだと思う。

 

*1 東京探険倶楽部
『散歩の達人』創刊のころ、1997年から2006年まで続いた長期連載。毎月、廃村だけでなく、道なき道を歩いたり、川をさかのぼったりしていた。

*2 奥多摩町異聞
瓜生卓造が1982年に東京書籍から刊行した奥多摩町に絞った聞き書きのような本。ほかに『多摩源流を行く』、『檜原村紀聞』『桜の湖』など。

*3 渡辺京二
2022年2月に亡くなられた思想史家、歴史家。『逝きし世の面影』で知られる。作家の石牟礼道子(2018年没)を60年間の長きに渡り支えてきた編集者でもある。また、二人とも水俣事件とかかわり、被害者たちと共に戦ってきた仲間でもある。

奥多摩の廃村[東京都奥多摩町]

【 行き方 】
JR青梅線奥多摩駅から西東京バス「鍾乳洞」行き18分の「倉沢」下車。土休日は手前の「東日原」行きとなる。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2023年4月号より