焼き尽くされた東京の街から、15歳の少年は歩いて故郷へ逃れた
突然ですみませんが、まず長々、これから亡き祖父の話をさせてもらいます――話も、あちこちに、とびます。
私のじいさんは、昭和20年(1945)3月9日、東京・町屋にいました。軍用機塗装に使うコンプレッサーを作る町工場で働いていたのです。15歳でした。未明、働き疲れた少年が下宿で寝ていると、外が騒がしい。おもてへ出て見上げると、B29の大編隊が下町一帯を焼き尽くそうと夜空をおおっていました。近くには、同じく上京して働いていた姉がいます。すぐさま下宿を飛び出して、彼女の下宿(おそらく日暮里方面)へ駆けますが、すでにあたりは火の海。ただ逃げ惑う以外に手立てはありませんでした。
姉を求め、あてどもなく歩き続けたまま夜が明けると、街は消えて、瓦礫の山と、
「黒焦げになった人らな。地面にずーっと、あった。俺はそれをふんじゃして(踏んで)、家さ帰えったんだ」
姉はついに見つからず、何日かかったかは分かりませんが、100キロほどの道を、少年は歩いて北関東の故郷へ帰りました。
たったこれだけのことを聞くのに数年。執拗に昔のことを孫が聞くので、しぶしぶ喋った断片。つなぎ合わせると、上記のようになります。昔のことを語りたがらないじいさんでした。――また、昭和20年(1945)に時間は巻き戻ります。
あと少し終戦が遅れていたら、「私」は生まれていなかった
郷里に帰って春が過ぎ、肌が汗ばむころ、少年は一通のはがきを受け取ります。合格通知です。「予科練」のものでした。海軍飛行予科練習生の略です。郷里の近くに置かれていた霞ヶ浦海軍航空隊による、いわば航空専門学校です。戦前は、パイロットを夢みる少年たちが憧れた予科練、この頃には全く変質していました。
「徴用に引っ張られるよりは、と思って志願したんだ。まあ行ってたら、死んでたっぺな」
ここまで聞くのにまた数年。突き放すように言うだけで本心は分かりません。なぜならその学校もすでに、徴用による肉体労働となんら変わらない過酷さの渦のなかにあったからです。
14歳から17歳までの少年をパイロットに養成するはずの学び舎は、戦争末期には、本土決戦用の陣地構築をする土木作業員をかき集めるような状態だったといいます。そして敵が上陸してきた暁には、彼らは地雷を抱いて戦車へ突進するのです。そしてもうひとつの役割が、特攻隊員の養成。搭乗員になれた者のうち8割が、特攻で亡くなったと言われています。
少年がまさに入隊しようと準備していた矢先、戦争は終わりました。あと少し終戦が遅れていたなら、私は生まれていないでしょう。本当に過酷な労働に駆り出されるのがイヤで志願したのか、愛国心からなのか、それともお姉ちゃんのかたきを討ちたかったのか、少年がそのときどう思ったのか、本当のところをじいさんが語ることはありませんでした。
家族が使い切れないほどの電化製品
私が小さいころ、お盆になるとこのじいさんと墓参りにいきましたが、家を出ていたじいさんの姉の名は、我が家の墓に刻まれてはいませんでした。同じ菩提寺のはずれ、木々が生い茂ったその影の下に、小さな空白地があって、そこにお墓はありました。といっても墓石はなく、
「ここには、なんにも、のまって(埋まって)ねえ」
ざわざわ揺れる木々の下で、じいさんがぼそりと言ったのを覚えています。行方知れずのお姉さんのお骨はそこにはありません。卒塔婆やお姉さんの戒名を書いた木切れがさしてあるだけでした。木が茂り過ぎて陰り、夏でも肌寒い。子供でも感じる、さびしさ。じいさんはいつも、何も言わず、花と線香を供えるだけでした。
私はこの光景を思い出すと、奇妙な場面も必ず、あわせて思い出します。家に戻り、小さな床の間にしつらえたお盆棚で線香をあげるときのこと。ナスやきゅうりの馬、蓮の葉にのせた生米、果物が飾られた床の間は、田舎の風習そのままの風景。そこに、ミスマッチにも、ビデオデッキ、ビデオカメラ、オーディオなどたくさんの電化製品が所狭しと並べられていたのです。床の間に限りません。家の至るところに、家族が使い切れないほどの製品がありました。テレビは全部で5、6台はあったと思います。すべて、じいさんが買ったものでした。
終戦後のじいさんは、工員、タクシーやトラックの運転手などの仕事を真面目にやりながら、休みの日も酒はのまず、タバコも若いうちにやめ、働きに働きました。昭和30年代までは、裸電球を吊った6畳一間の掘っ立て小屋に家族5人が暮らしていたのに、50年代に入るころには、ささやかな床の間のある、小さな平屋を建てていました。彼の数少ない余暇の楽しみは、少々の競馬と、こうした電化製品を買うことだったのです。晩年までそれは続きました。
「カトーデンキ(現・ケーズデンキ)行ってくっから」
ぼそりと言い残しては出かけ、帰ってくると何か新製品のダンボール箱を手にさげていました。封を解いた箱の中からは、大体漆黒の製品が出てきます。そこに必ず刻まれていた文字、「SONY」。
SONY、SONY、SONY。じいさんが買ってくる黒い電化製品はソニーだらけ。
私が中学にあがるときに買ってもらったテレビもそう。世間が液晶に切り替わり、ブラウン管の使用をやめるその日まで、一度の故障もなく稼働し続けた漆黒の「ソニー・トリニトロン」。この名前は輝かしく、誠にクールで、「SONY」のロゴを目にするたび、絶対的な安心感を私に与えるのでした。ソニー創業者・井深大や盛田昭夫が、戦後、働き者の青年たちに見せた夢は、孫にも受け継がれました。
墓石と電化製品
あれから30年。いま実家に帰って、家のなかを見回すと、稼働しているものはほとんどが、海外メーカーのものになっていました。もうソニーを買うことに執念を燃やした少年はいないからです。
じいさんは数年前に亡くなりました。昔のこと、もう少し聞いておけば良かったな――この仕事をするようになって、じいさんに線香をあげるたびにそう思います。でも、いやまてよと思い直すのです。口下手のじいさんにかわって、私に語りかけるものたちがあったな、と。
爺さんが亡くなる少し前に建てた、木漏れ日の下でつやつやと輝く、お姉さんのための大きな墓石です。そして、床の間でホコリをかぶる古いソニー製品たちです。彼らは、働くこと、日々が平穏なこと、祈ること、その意味を今も私に雄弁に教えます。そして豊かさとはなんだろうかと、線香の香り漂う奥から、今も、こちらに問うてくるのです。
文=フリート横田