発作のように「今日はタバスコとケチャップだ!」

パスタ、じゃなくてぶっといスパゲッティ、あれがいいんですよね。ゆであげて油をまぶして置いておき、たまねぎ、ピーマン、ウインナーを、バターとたっぷりのケチャップでもって、ジャーっとフライパンに音を弾かせながらコテコテに炒めあわせる。最後に粉チーズ、タバスコをまぶして一気に吸い込む。ごほっ! 熱さとタバスコでむせるあの瞬間。思い出すだけでにんまりといやらしい顔つきになってしまいます。

戦前、原型になる食べ物はあったようですが、いまのナポリタンの嚆矢(こうし)は、戦後進駐軍兵士が食べていたケチャップ炒めにあると言われています。ルーツのことはよく知りませんが、アメリカナイズされた食べ物であることは、我々の感覚からもわかりますよね。だって、ケチャップの酸味に無茶苦茶合うすっぱ辛いあのタバスコ、瓶にメイドインUSAってハッキリ書いてあります。手首が疲れるくらいたっぷりいきませんか? 私などはタバスコが食べたくてナポリタンを食べに行くことがあるくらいです。

そう、発作のように「今日はタバスコとケチャップだ!」と思い立つやいなや、私はナポリタンの店へ出かけます。個人経営のお店はもちろん、チェーン店でも大好きな店があります。新橋あたりは何軒か集中しているので年中回遊してしまいますね。店先に堂々と積み上げた、業務用の巨大なトマトケチャップ缶、あれを見るのも安心します。

そのとき、カウンター席で肩をすりあわせる両側のお客を、横目にチラっと。「ああ汚してるな」紳士も淑女も、結構口のまわり、オレンジ色に染めていますよ。だらしない? いや、あれがいいんじゃないですか。子どもが白い壁いっぱいにクレヨンでお絵描きしてしまうのと同じです。汚しながら食べる喜び。いっとき、抑圧から解放させるケチャップ麺の魔力。

ナポリタンの旨さを決めるもの

一方、自分ながら不思議に思うことがあります。じつは、惹かれないナポリタンもあるんですよ。コンビニ弁当の付け合わせなんか大好きで、常温で具もなんも入ってなかろうとぜんぜんOK、なんなら最後にとっておくくらいなのに、こだわりのナポリタン、みたいなのがどうも、苦手。

ケチャップじゃなくてトマトソースをベースとしていたり、具にフレッシュトマトやアスパラなんかが入っていたりするようなやつです。もちろん、とても美味しいんですが、オーダーした段階で、ナポリタンが来る!って待っちゃっています……で運ばれてきてアレ、なんか違う、となるわけです。いいんですよ、遠慮なしにケチャップを大量投下してくれて。と思ってしまうんですね。

手間をいくつもかけたもの、身体にいいもの、素材を多彩に使ったものがいつでもいい食べ物だとは限りません。ナポリタンの旨さを決めるものは、そういう価値観とは違う場所にいると思いませんか。

子どもたちに華やいだ赤を盛ってやろうと作った一皿

旨さを決めるのは、各人のなかにある「原型」に、どれだけ近いかにあると思います。この味が最高なんだ、と思った日がかつて誰にもあったはずです。

東京から夫の故郷の村へ引っ込み、おんぶひもで幼子をおぶいながら薪を割り、灰色の気持ちを抑え、あかぎれだらけの手でケチャップを絞り出し、なんとか子どもたちに華やいだ赤を盛ってやろうと作った一皿。これが私の原型です。――つまり、「記憶を食べている」ということ。

あなたにとっての原型は、誰が、いつ作ったものでしょうか。

文・写真=フリート横田