新宿の名店『スンガリー』の流れを汲む本格ロシア料理店
神保町駅のA7出口を出て、白山通りから神田すずらん通りに入る。日本最大の本の街といわれる神田神保町にあるすずらん通りには、古書店はもちろん、飲食店も多く並ぶ。新しい店と古い店が入り混じり、どの店も個性豊かだ。
ほどなくして『ろしあ亭』の青い看板が見えてくる。カラフルなレンガ造りのかわいらしい店構え。
お店に入ると奥行きのある店内にテーブル席がずらりと並ぶ。ロシア人女性の店員さんの案内で、ロシアの民芸品・マトリョーシカやウォッカの瓶が飾られた階段を上り、2階席へ。2階でオーナーの北市泰生さんが出迎えてくれた。
北海道芦別市出身の北市さん。高校卒業後に上京して都内の大学に入学したが、当時熱を帯びていた学生運動に身を投じ、その余波で大学を中退。その後、友人の紹介で、新宿にある日本のロシア料理店の草分け『スンガリ―』で働くことになる。
もともと飲食業に興味があったわけではなく、飲食を仕事にしようと思ったのは大学を辞めてからで、それまでは飲食店でのアルバイト経験などもなかったそう。「最初はホールとカウンターを任されて、その後、厨房に入って調理も覚えて。『スンガリー』では17年間働かせてもらいました。『ろしあ亭』の料理のベースは『スンガリー』の流れです」と北市さん。
独立し、神保町に『ろしあ亭』をオープンしたのは1995年7月3日。店名の由来を伺うと「本当は『スラビアンバザール』にしたかったんです。モスクワにある有名なレストランの名前なんですけど、あんな店にしたいなと思って。でも日本人には“スラビアン”は浸透しないだろうなと。ほかにもいろいろ考えたんですけど、開店1週間ぐらい前にもう『ろしあ亭』でいいやと思って」と北市さんは笑う。
ビーフストロガノフを茶色にしたのはフランス人!?
『ろしあ亭』のランチセットにはすべてにボルシチ、ロシアサラダ、自家製パン、デザートが付く。メイン料理は壷焼きマッシュルーム、白いビーフストロガノフ、グリヤーシ(豚肉料理)、ロールキャベツの4種類だ。どれも魅力的だが、今日はもちろん白いビーフストロガノフを注文。
最初にボルシチ、サラダ、パンがテーブルに到着。まずはロシアの代表的な料理のひとつ、ボルシチからいただきます!
タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、セロリ、ピーマン、トマト。野菜がたっぷり入ったボルシチは、鮮やかな赤色をしている。「赤色を出しているのは、ビーツという根菜です」と北市さんが教えてくれた。「ビーツを千切りにして、酢でもみ込んで、ちょっと黒っぽくなるまでソテーするんです。それを鍋に入れるときれいな赤色になります」。
ランチメニューには“ロシアサラダ”と書かれている、サリョンナヤ・カプスタ。“カプスタ”はロシア語でキャベツのことで、サリョンナヤ・カプスタは“キャベツの酢漬け”という意味だそう。「ロシアは寒い時期が多いので、食材を酢漬けや塩漬けにして保存食として取っておくんです。キノコも何種類も漬物にしておきます」と北市さん。
パンはパンプーシキというボルシチ用のパンとライ麦パンが1つずつ付く。パンプーシキはニンニクをきかせたパンで、ウクライナでは必ずボルシチに添えられるそう(この日は残念ながらパンプーシキが品切れ!)。
そしていよいよ本日の主役、白いビーフストロガノフの登場!
ビーフストロガノフは、もともと1800年代にロシアで生まれた料理。当時は白いビーフストロガノフだった。「ロシア帝国に攻め込んだフランス兵が国に持ち帰り、デミグラスソースにアレンジされてフランスで広まった。その後、茶色のビーフストロガノフがフランスからロシアに持ちこまれたっていう話を聞いてます」と北市さんは話す。ロシアでは今でもどちらかというと白いほうが多いそう。
『ろしあ亭』のビーフストロガノフに添えられているのは、蕎麦の実入りのライスだ。「蕎麦の実とご飯を一緒にして炊き上げるのはこの店のオリジナル。ロシアではそんなことはしないです。ロシアではカーシャといって、蕎麦の実を朝食でオートミールみたいにして食べるんですよ。蕎麦の実のおかゆみたいなものです」と北市さん。
へー、蕎麦って日本の食べ物だと思っていたけれど、ロシアでも食べられてるんだー、と思い、世界の蕎麦の生産量を調べてみたら、ロシアがトップ! 日本の20倍以上もの生産量だ(国連食糧農業機関(FAO)の統計2020年)。ロシアでは日本の蕎麦のように麺にするのではなく、前出のカーシャやブリヌイと呼ばれるパンケーキにして食べるんだそう。
さらにロシア料理について伺うと、「お店の味はブイヨンで決まる」と北市さん。ブイヨンはだいたい3日に1度仕込み、それをすべての料理に使う。調理に水は使わないんだそう。「それから、ロシア人が言うには、ロシア料理はすべてウォッカのためにあると(笑)。ウォッカをおいしく飲むために料理がある。ウォッカありきなんです」。つまり今日いただいたお料理もウォッカと合わせればより一層おいしくなるってことですね!? 次に来た時は必ずウォッカを一緒に注文しないと!
ロシア文学に登場する料理をメニューにしたい
「神保町は、新宿のような繁華街と違って、落ち着きがありますよね」。北市さんは大学生の頃から、本屋がたくさんある神保町の街の雰囲気が好きだったそう。「でも今は古本屋さんがだいぶなくなって、飲食店ばっかりになってきて、もう普通の街になりつつある。岩波ホールも閉めちゃったでしょ」。
北市さんがさらに続ける。「昔は常連さんの引き継ぎがあったんですよ。定年退職が近くなると行きつけのレストランに会社の後輩を連れて行って、その後輩を店のなじみにする。引き継いでから会社を辞めていったんです。今はそれがパワハラになるって(笑)。そういうのがなくなっちゃったんですよ」。北市さんは少し寂しそうだが、代わりに今はSNSなどを見て遠くからわざわざ足を運んでくれるお客さんが多いという。
「日本人にとってロシアはどうしても暗いイメージがあるんで、そういうのは払拭したいですね」と北市さん。『ろしあ亭』のスタッフのほとんどがロシア人だ。「ロシアの人って明るいんですよ。ソ連の時代とは変わってきてます。若い人たちはもう本当に、みんな明るい。ただシャイなんですよ」。
『ろしあ亭』をはじめてから四半世紀以上たつが、北市さんにはこれからまだやりたいことがあるそう。「ロシアって有名な作家がたくさんいるじゃないですか。その小説に出てくる料理を実際につくってお客様に出したいなと思っていて。たとえば『この料理はトルストイの小説○○の何ページ目に出てくる』とか。ノートにたくさん書き留めてあるんですけどね、なかなか行動に移せなくて(笑)」。
本に出てきた“あの料理”が食べられるなんてステキ! その時に備えてロシア文学をたくさん読んでおこうと思う。楽しみに待ってます!
取材・文・撮影=丸山美紀(アート・サプライ)