上総介成敗の地とも見られる十二所(じゅうにそ)
景時にまつわるエピソードとして、石橋山の合戦時の振る舞いとともに耳目を集めるのが、寿永2年(1183)、大倉御所で双六を打っていた上総介広常を、突然討ち取ったことであろう。これは広常に謀反の疑いを抱いた頼朝が、景時に命じたことであった。
この事件は鎌倉の御所内で起こったと言われているが、広常の屋敷があったとされる十二所が現場だったとも見られている。そこは朝比奈切通しの入り口に当たるのだが、すぐ近くに景時が広常を斬った太刀に付いた血を洗ったとされる「太刀洗水」があるからだ。
この周辺は「上総介広常」を扱った回の、朝比奈切通し越えで触れている。その時は六浦方面から歩いているが、鎌倉駅前からバスに乗り十二所神社前で下車すれば、徒歩5分ほどで太刀洗水前まで行ける。そこからすぐの朝比奈切通し方面に行かず、十二所果樹園へと登った方面に広常の屋敷があったようだ。果樹園内の展望台まで登れば、天気の良い日は富士山を望むことができる。
梶原氏の祖を祀る長谷の御霊神社
鎌倉の中心部には、あまり梶原景時に関係する場所は見当たらない。そんな中、外せないのが坂ノ下にある御霊神社だろう。この社には鎌倉党の祖、鎌倉権五郎景政が祀られている。鎌倉党というのは鎌倉郡などを拠点とした武士団で、その一党から大庭、梶原、鎌倉、長江、長尾等各氏が輩出されている。頼朝が鎌倉入りする以前から、この地に根を張っていたと伝えられている。
現在は江ノ電の長谷駅から徒歩5分ほどで行くことができる。御霊神社のすぐ隣には、長谷観音の名で親しまれている観光スポット、海光山慈照院長谷寺がある。由比ヶ浜海岸も徒歩10分ほどで行くことができる。
御霊神社は鳥居のすぐ前が江ノ電の踏切なので、電車の走行と神社を同時に撮影できるのだ。そのため鉄道写真マニアの間でも、人気の高い場所として知られている。しかも線路脇から江ノ電唯一のトンネル、極楽洞に出入りする車両の撮影もできる。
北条氏ゆかりの極楽寺から梶原氏発祥の地へ
次に目指すのは梶原にある御霊神社なので、極楽寺駅を目指して歩く。鳥居をくぐり踏切を渡りそのまま直進すると、現在は極楽寺坂と呼ばれている極楽寺切通しを越える道とぶつかる。現在ではクルマも通る道となっているが、ここも鎌倉防衛には欠かせない切通しのひとつであった。道の両側に崖が迫っている光景が、当時の姿を彷彿とさせてくれる。
この坂を越えると極楽寺駅に至るが、その前に駅名となった寺院へと向かう。線路を隔て駅の反対側に立つ極楽寺は、北条義時と姫の前の息子・重時の山荘に造られた寺院。重時は義時の三男で泰時の弟。六波羅探題として17年間京の最高責任者を務めた人物だ。
極楽寺駅から再び江ノ電に乗り、江ノ島駅に向かう。そこで湘南モノレールに乗り換え、4つ先の湘南深沢駅を目指す。この路線はレールの下に車両がぶら下がる懸垂式モノレールなので、ちょっとドキドキさせられた。
湘南深沢駅の近くには、梶原という地名がある。この一帯は鎌倉党の一流である梶原氏発祥の地とされている。駅から歩いて10分ほどの場所にあるこちらの御霊神社も、鎌倉権五郎景政が祀られている。加えて景時も合祀されている。字は同じでも坂ノ下は「御霊=ごりょう」、梶原は「御霊=ごれい」と読む。
住宅地の一画に森閑とした社を見る
ここまでは鎌倉周辺散歩のエリアといってもよいだろう。続いて訪れたのは戸塚の三嶋(三島)神社だ。この社は文治年間(1185〜89)に、梶原景時によって創建されたと伝えられている。ここはJR東海道本線戸塚駅からバスを利用し戸塚西公園を目指すか、市営地下鉄ブルーライン踊場駅から40分ほど歩く。
景時は鎌倉権五郎景政が崇敬していた専念寺を再建するにあたり、そばの丘陵を開拓して社殿を建てた。そこに景政の神霊を祀り、伊豆の三島明神を勧請し御霊社と称した。後に三島神社と改めている。
周囲は閑静な住宅地となっているが、社はまるで森閑とした山の中のような風情に包まれていた。昼でも人通りが少なく、風に揺れる木々のざわめきが聞こえるだけであった。
景時が支配した一宮に残る館の遺構
石橋山で頼朝の命を助けた景時は、頼朝の家臣となると厚い信頼を受け、武家政権の土台を築くのに貢献した。その後、鎌倉に構えた館のほかに、一宮(現・寒川町一之宮)も所領として与えられ、ここにも館を構えている。こちらの館は情報収集や非常時に対する備えとして活用されていたようだ。
館は現存していないが、その跡地に立つ小さな一之宮天満宮は、和歌をたしなむなど教養のあった景時の風雅を称え、里人が当時の館の物見台跡に創建したものといわれる。加えて2001年に行われた発掘調査で、館を囲む堀跡らしき遺構が確認された。
天満宮の並びには、梶原氏一族の郎党七士の墓と伝えられている石造物群がある。これらの史跡を訪ねる場合、JR相模線寒川駅から徒歩15分ほどだ。
そして相模線の起点となる東海道本線茅ヶ崎駅から徒歩30分ほどの旧相模川(現・小出川)の畔では、大正12年(1923)の関東大震災とその余震により、水田に橋脚が現れた珍しい遺跡が見られる。調査の結果、これは頼朝の重臣・稲毛重成が亡き妻の供養のために、建久9年(1198)に架けられた橋の橋脚だと認定された。この橋供養に赴いた帰り道、頼朝は落馬し翌年に亡くなっている。
この橋脚遺跡は歴史遺産としてだけでなく、関東大震災の地震状況を示す天然記念物でもある貴重なものだ。ちなみに現在池の上に突き出している橋脚はレプリカで、本物は保存のため地中にある。
そして景時最期の地、静岡の梶原山へ
頼朝が亡くなった後、北条時政は幕府の要職から外されてしまう危機感を抱いた。北条氏は由緒ある豪族でないうえ、二代目の鎌倉殿である頼家は、比企氏が支える体制となっていた。このままでは比企氏はもちろん、その他の有力御家人の後塵を拝してしまう。そう考えた時政は、対抗馬となる有力御家人たち、さらには頼家までも亡き者にするという、非情の手段に出てしまった。
まず頼朝、頼家から絶大な信頼を得ていた梶原景時が標的となる。景時は讒訴(ざんそ)癖があり、合議衆に選ばれた直後には御家人の結城朝光に謀反の疑いがある、と頼家に讒訴した。それを時政の娘である阿波局が朝光に伝えたことで、景時は逆に他の御家人たちから弾劾されてしまうのだ。
その結果、景時は鎌倉を追放され、再起を期して上洛する途中の駿河国清見関で、一族はことごとく誅殺されてしまう。この駿河の地は、時政が支配していたことから、彼が黒幕であったといわれている。
梶原景時・景季・景高の親子三人が自刃したのは、現在は静岡市清水区と静岡市葵区の境に聳える梶原山の頂。小さなクルマなら、山頂近くの駐車場まで登れるが、途中はすれ違いができない場所も多い。公共交通機関を利用して訪ね歩くと、1日ハイキングになる。だがそれだけの価値がある、素晴らしい眺望の公園だ。麓には梶原一族を祀る大内梶原堂も残されている。
次回は陰謀渦巻く鎌倉の地と、北条義時・政子の足跡を辿ってみたい。
取材・文・撮影=野田伊豆守