朝比奈バス停の近くにある上総介塔。
朝比奈バス停の近くにある上総介塔。

頼朝の再起に欠かせない存在だった広常

治承4年(1180)9月、石橋山で手痛い敗戦を喫し、海路安房に逃げ延びた頼朝一行は、その地で最期を迎えてもおかしくない状況だった。にもかかわらず、わずか1カ月ほどで勢力を盛り返す。石橋山で煮え湯を呑まされた大庭景親らを破り、鎌倉入りを果たせたのは、上総介広常の軍(2万騎とされるが、1万騎や1千騎という説もある)が味方に付いたことが大きかった。

広常は源平両軍を秤にかけ、頼朝の陣に参上するのが遅れたという説もあるが、『吾妻鏡』では頼朝の呼びかけにすぐさま応じた、と読み取れる部分もある。

その後の戦いでも重要な役割を果たし、頼朝軍の中核を成していた。当然、鎌倉にも相応の館を構えていたと思われるが、広常の館があった場所は、はっきりとわかってはいない。鎌倉七口のひとつ、朝夷奈切通しの近くにある十二所(じゅうにそ)果樹園付近に館を構えていた、と伝えられている程度なのだ。

上総介広常の館があったと言われる十二所果樹園。
上総介広常の館があったと言われる十二所果樹園。

頼朝夫妻ゆかりの神社が残る金沢八景

三方が山、残る一方が海という鎌倉は、町全体がそのまま城と言えるような、軍事都市であった。そこに出入りするための道は「鎌倉七口」と呼ばれ、途中の山越えには軍勢の通行を阻む切通しが造られている。

東に位置する六浦湊から鶴岡八幡宮までを結んだ「六浦道」は、江戸湾側から鎌倉へ向かう際の、重要なルートとしてさまざまな文物が往来していた。この道の途中にあるのが、朝夷奈切通しだ。というわけで今回はハイキング気分で切通しを越え、上総介広常の足跡を求め、十二所果樹園を目指すことに。まずは出発点とした金沢八景駅へ向かった。

上はシーサイドラインの金沢八景駅。右奥は京急本線。
上はシーサイドラインの金沢八景駅。右奥は京急本線。

この駅は京浜急行本線と金沢シーサイドラインが乗り入れている。もしも余裕があるならば、シーサイドラインに乗ってもらいたい。というのも、高架線を通るシーサイドラインなら、金沢八景駅の前に広がる平潟湾に浮かぶ琵琶島神社を俯瞰(ふかん)できるからだ。

この小さな神社は、北条政子が琵琶湖の竹生島から勧請した、弁天社(琵琶島神社)が祀られている。参道入り口にある福石は、頼朝が禊(みそぎ)を行なった際に衣服を掛けたと伝えられている。琵琶島と呼ばれるようになったのは、島の形が楽器の琵琶に似ていたから。俯瞰で眺めると、それがよくわかるわけだ。

シーサイドラインから俯瞰した琵琶島神社。
シーサイドラインから俯瞰した琵琶島神社。
北条政子が勧請したと伝えられている。
北条政子が勧請したと伝えられている。

国道を隔てて向かいに建つ鳥居は、六浦庄における中心的な存在だった瀬戸神社のものである。この社は治承4年に伊豆で挙兵した源頼朝が、伊豆三島明神(現・三嶋大社)を勧請したのが起源という。

鎌倉幕府が開かれて以来、執権北条氏、鎌倉公方足利氏、小田原北条氏といった歴代の権力者に保護され、江戸時代になっても徳川将軍家から百石の朱印地を与えられていたのである。まずは頼朝夫妻に関連する二社を参拝し、六浦道をたどることにしよう。

六浦の中心的存在だった瀬戸神社。
六浦の中心的存在だった瀬戸神社。

最初は退屈な車道の脇をひたすら歩く

六浦道はその後「金沢街道」と呼ばれ、昭和31年(1956)に県道金沢・鎌倉線が開通するまで、人々の往来を担う街道として機能していた。そのためこの道に残る朝夷奈切通しは、往時の面影をよく残しているのだ。

瀬戸神社前からは2kmほど車道が続くので、少し心が萎えてしまう。途中に『江戸名所図会』に挿絵として紹介されている磨崖仏「鼻欠地蔵」の前を通るが、今ではすっかり風化してしまい、どのような姿であったか見当もつかない。

今は単なる岩肌にしか見えない磨崖仏の鼻欠地蔵。
今は単なる岩肌にしか見えない磨崖仏の鼻欠地蔵。

磨崖仏を過ぎしばらく進むと、先に朝比奈バス停が見えてくる。その少し手前、右手の歩道脇に小さな供養塔が建っているのに気づくはずだ。地元の人たちに「上総介塔」と呼ばれ、古くから上総介広常を供養したものと伝えられてきた。

上総介というのは官職名なので、それだけでは広常のものだと決められない。だが十二所に屋敷があり、そこと本国の上総を行き来するとすれば、朝夷奈切通しを越えて六浦に出るのは、ごく自然の道筋と言えよう。ここは素直に広常のものとしておこう。

大河ドラマ人気で献花が絶えなくなった上総介塔。
大河ドラマ人気で献花が絶えなくなった上総介塔。

突然間の前に静かな山道が現れた

朝比奈バス停の先に、朝夷奈切通しへと向かう旧道を示す案内板があった。その道に入るとクルマの喧騒が無縁のものとなる。そんな道を少し歩くと、車止めがある道が右手に現れた。ここだ。

バス停の先にある朝夷奈切通しの入り口を示す案内板。
バス停の先にある朝夷奈切通しの入り口を示す案内板。
バス停から5分ほどで山道の入り口に至る。
バス停から5分ほどで山道の入り口に至る。
すぐに江戸期の庚申塚などが立ち並んでいた。
すぐに江戸期の庚申塚などが立ち並んでいた。

この道は仁治2年(1241)、鎌倉幕府が山稜部を開削し、幹線道路となっている。『吾妻鏡』には、現場に三代執権北条泰時自らが出向き、工事を監督したとある。

すると広常の時代は、この道はなかったのでは、という疑問が沸いてきた。ただ当時の六浦は塩の産地であり、諸国から船が来航する重要な港湾であった。もっと小さいが道は通っていたと考えるのが自然だ。

気持ちの良い山道がしばらく続く。
気持ちの良い山道がしばらく続く。

しばらく山道を登っていくと、両側から土の壁が押し迫ってくる場所が現れる。土の壁には、いかにも手掘りで造られたことを物語るノミ筋が、いくつも残されていた。だがここはまだ、朝夷奈切通ではない。

途中にあった見事な切通し。手掘りの跡がわかる。
途中にあった見事な切通し。手掘りの跡がわかる。

そこを抜けると、熊野神社への分かれ道があった。神社へは10分もかからない距離なので、立ち寄っておきたい。この社は頼朝が鎌倉に幕府を開いた際、鬼門に当たる北東方向の朝夷奈山上に、熊野三社権現を勧請したものだからである。

鎌倉の鬼門を守り続ける熊野神社。
鎌倉の鬼門を守り続ける熊野神社。

広常館はわからないが富士山は美しい

再び街道に戻り、少し登れば朝夷奈切通で、その先から道は下りとなる。そこでは一度来た道を振り返ってみよう。切通しの壁面に彫られた磨崖仏が目に飛び込んでくる。前しか見ないと、気づかずに通り過ぎてしまい、損をしてしまうのだ。

切通しの岩壁では磨崖仏が旅人を見守っている。
切通しの岩壁では磨崖仏が旅人を見守っている。

下りの道は脇が水路のようになっていて、清冽な流れがずっと一緒だ。時折、道にまで水があふれている場所がある。緑が多いのと水が流れていることで、標高が低いわりに夏でも涼しさを感じられる道だ。

しばらく下ると、道の脇に江戸期に建立されたと思われる石仏が見られ、歴史を感じさせられた。さらにぬかるんだ坂を下りると小さな滝と車止めが現れ、朝夷奈切通しの山道が終了する。そこからは、未舗装だがクルマも走れる道となった。

途中には石仏も。その前の道は水が流れていた。
途中には石仏も。その前の道は水が流れていた。
木陰と水の流れのおかげで清涼感溢れる山歩きが楽しめる。
木陰と水の流れのおかげで清涼感溢れる山歩きが楽しめる。
朝夷奈切通しへ向かう山道の反対側の入り口。滝が目印。
朝夷奈切通しへ向かう山道の反対側の入り口。滝が目印。

その道を左方向に登っていけば、広常の館があったと伝わる十二所果樹園だ。金沢八景から歩いてきた足には、少々こたえる登りだが、10分ほどで入り口ゲート前に出られた。とくに入園料などは不要だが、果実の盗難を防ぐためのゲートらしい。

十二所果樹園入口にあったゲート。施錠されることもあるようだ。
十二所果樹園入口にあったゲート。施錠されることもあるようだ。

果樹園内にあった案内板には、とくに広常に関する記述はなかったので、とりあえず展望台を目指すことにした。ゲートから展望台までは、途中に急な階段があったが10分ほどで到着。展望台からは鎌倉の市街地越しに富士山も遠望できた。広常の館跡らしき痕跡はわからなかったが、初夏の散歩には最高のシチュエーションだった。

果樹園内にはさまざまな樹木が植えられていた。
果樹園内にはさまざまな樹木が植えられていた。
展望台には木製ベンチあり。休憩に最適。
展望台には木製ベンチあり。休憩に最適。
展望台から微かに見ることができた富士山。
展望台から微かに見ることができた富士山。

十二所果樹園を後にしたら、再び朝夷奈切通し出口まで戻る。そこから30mほど下った小川の畔に、「梶原太刀洗水」と書かれた看板があった。山の斜面から突き出た竹筒の先から、水が流れ出ている。

言い伝えによれば、大倉御所で広常と双六を興じていた景時が、突然太刀をふるって広常を討ち取った。その後、景時はこの湧水までやって来ると、刀に付いた広常の血を洗い流したというのだ。大倉御所からここまで、歩くと30分近くかかる。その距離を血糊の付いた太刀を下げて来るのは不自然だ。広常惨殺の現場は、十二所にあった広常の館であったのかも知れないと考えさせられた。

梶原景時が太刀に付いた上総介広常の血を洗い流したという湧水。
梶原景時が太刀に付いた上総介広常の血を洗い流したという湧水。

そこから5分ほどで、十二所神社バス停に出る。今回のコースでは、普段は鎌倉とは思えない静寂を楽しめるはずだ。

 

次回は鎌倉周辺に残る、源義経ゆかりの地を巡ります。

取材・文・撮影=野田伊豆守