若き二代目は、先代の最側近・安達父子の粛清に走る

源頼家による専制政治に代わって導入されたのが、有力御家人13人による合議制であった。その顔ぶれは、
・北条時政
・江間(北条)義時
・三浦義澄
・和田義盛
・梶原景時
・比企能員
・八田知家
・足立遠元
・安達盛長
・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政

いずれも武蔵、相模、伊豆、駿河の御家人たちであり、この4カ国が幕府の中心であることを示している。ちなみに駿河は時政が守護を務めていた。そして大江広元以下は文官というわけだ。この体制による政治は、建久10年4月から始まっている。

合議制がスタートしてわずか4カ月後の正治元年(1599)8月、幕府の屋台骨を揺るがす事件が勃発する。頼朝が伊豆に流された時から苦楽を共にした最側近の安達盛長の子・景盛が、頼家により殺されそうになったのだ。

事件のあらましはこうだ。頼家が景盛の愛妾に横恋慕し、これを奪ってしまう。このことで恨みを抱いた景盛が、謀反を企てているという讒言(ざんげん)を信じた頼家は、景盛討伐を命じて軍勢を集めたのであった。まさに一触即発という段になり、頼家の母である北条政子が頼家をたしなめ、仲介して事なきを得た。

鎌倉市役所の隣にある御成小学校。付近に問注所が置かれていた。
鎌倉市役所の隣にある御成小学校。付近に問注所が置かれていた。

鎌倉駅西口を起点に、安達盛長屋敷跡を巡る

源頼朝がもっとも気を許していたと言われているのが、伊豆に流された時からずっと側に仕えていた安達盛長である。そんな盛長の鎌倉の邸宅は、鎌倉最古の神社とされている、甘縄神明宮の南側にあったという。だが最近は、別の場所にあった可能性も語られている。

そのひとつが、鎌倉市立御成小学校だ。ここの地下には古代と中世の遺跡が埋もれている今小路遺跡である。中世の遺跡に関しては、武家屋敷跡が南北にあり、さらに道路や町屋跡が確認された。この武家屋敷に関して南側は有力御家人、北側は北条得宗家の関係者の邸宅ではないかと言われている。有力御家人というのが、安達盛長ではないかというのだ。

御成小学校の立つ場所には、幕府の重要機関のひとつである問注所もあったことからなのか、校門はまるで砦の門のようなスタイルをしていて目を引く。鎌倉駅西口から徒歩2分ほどなので、別の場所が目的地だったとしても、軽い気持ちで立ち寄れるだろう。

御成小学校前の道をそのまま南に向かうと、長谷観音方面に続く県道とぶつかる。その辻は六地蔵が鎮座しているのが目印。県道を右に辿ると甘縄神明宮に至る。

県道との交差点に建つ六地蔵。
県道との交差点に建つ六地蔵。

甘縄神明宮の最寄り駅は江ノ電の由比ヶ浜駅か長谷駅になるが、鎌倉駅から歩いても25分ほど。途中には『吉屋信子記念館』や『鎌倉文学館』といった名所もあるので、散策するのも悪くない。テイクアウトができるカフェなどもあるので、グルメも堪能できる。

県道との交差点に建つ六地蔵。
県道との交差点に建つ六地蔵。

そして安達盛長の邸宅跡に関しては、近年の発掘調査によって新たな発見もあった。それは鎌倉に残されている歴史的遺産と文化的遺産を学び、体験し、交流できる場として、平成29年(2017)5月15日に開館した『鎌倉歴史文化交流館』が立つ場所に、盛長の邸宅や安達氏の菩提寺であった無量寿院という、寺院が建っていた可能性が高いとわかったのである。この施設に行く場合も鎌倉駅の西口を利用し、静かな住宅地を10分程度歩けば正門前に着く。無量寿院跡は西口からのアプローチ道脇に案内板がある。

『鎌倉歴史文化交流館』の敷地で発掘された無量寿院跡。
『鎌倉歴史文化交流館』の敷地で発掘された無量寿院跡。

仁義なき骨肉の争いにまで発展 。頼朝の兄弟・阿野全成が粛清される

頼家と安達氏の武力衝突は、寸前に回避することができた。しかし前回紹介した通り、この年の秋には梶原景時が66人の御家人たちから弾劾状を突き付けられ失脚。その後、再起を図り上京を試みるも、北条時政の領国であった駿河で殺害された。

頼家は父の頼朝同様、景時を信頼する気持ちが強かった。そのため景時を殺害した祖父の時政に対抗し、建仁3年(1203)5月19日、時政の娘婿であり、頼家にとっては叔父に当たる阿野全成に謀反の疑いをかけ、武田信光を派遣して捕縛する。捕らえられた全成は25日に常陸国に配流され、6月23日に八田知家によって処刑されてしまう。

これはまさしく骨肉の争いであったが、弟たちや同志であった者たちを粛清した頼朝の例から考えて、この時代は肉親であっても、対立すれば躊躇(ちゅうちょ)なく攻め殺したようだ。

駿河国阿野庄(現・静岡県沼津市)を領有し、御家人として鎌倉幕府に仕えていた全成は、井出に居館を構えていた。現在は東海道本線原駅が最寄り駅となる。そこから3kmほど北西にある大泉寺が、全成の館があった場所とされている。原駅からは、のどかな田園風景のなかを抜ける直線道を辿ることになる。

沼津市にある大泉寺は阿野全成が建立。
沼津市にある大泉寺は阿野全成が建立。
境内には全成と嫡男の時元の墓がある。
境内には全成と嫡男の時元の墓がある。

頼家の重病が引き金。北条と比企の対立に決着

梶原景時が北条時政に、阿野全成は源頼家に殺されたことで、祖父・時政と孫・頼家の対立は抜き差しならない状態となった。そんな状況であった建仁3年7月、頼家が病に倒れてしまう。そこで後継者を巡り、北条家と比企家の対立も深まった。

同年9月2日に比企能員は、北条時政追討を頼家の妻であり、自分の娘でもある若狭局に進言した。それを北条政子が耳にし、時政に知らせたと『吾妻鏡』に記されている。普通、このような大事は人に聞かれる場所で話さないもの。この話自体、時政による作り話であった可能性が高い。

いずれにしても、時政は仏像供養の儀式を催すという理由で、能員を北条の館に呼び出した。能員は平服で館を訪ねたところ、館内に潜んでいた天野遠景と仁田忠常により斬殺される。時政の軍はそのまま比企の館に攻め込んで、一族を討ち滅ぼしてしまったのだ。

妙本寺山門付近は比企ガ谷と呼ばれている。
妙本寺山門付近は比企ガ谷と呼ばれている。
山を背負い、緑が濃いのが印象的。
山を背負い、緑が濃いのが印象的。

比企能員の館があった場所に建っているのが、日蓮上人によって開山された妙本寺である。ここは鎌倉駅東口から徒歩10分、祇園山ハイキングコースの麓(ふもと)にある、静かな佇まいの古刹だ。境内には比企一族の供養塔、戦火の中、わずか6歳で亡くなった一幡(頼家と若狭局の子)の袖塚、若狭局が身を投げた井戸(一説には池)があった場所に建てられた蛇苦止堂など、比企氏にまつわる史跡が点在。

境内には比企能員とその一族の墓がある。
境内には比企能員とその一族の墓がある。
すぐ隣には見事な祖師堂がある。
すぐ隣には見事な祖師堂がある。
若狭局を祀る蛇苦止堂にも足を延ばしたい。
若狭局を祀る蛇苦止堂にも足を延ばしたい。

妙本寺は広大な敷地を有し、山の斜面を利用した立体的な伽藍(がらん)配置となっている。奥まった場所に建つ祖師堂は、鎌倉時代最大級の木造仏堂建築だ。境内は緑も濃いので、暑い季節にひと息入れるスポットとしてもおすすめ。裏手にある墓地から、祇園山ハイキングコースに向かうこともできる。

祇園山を借景にした寺院。自然が織りなす極上の趣がある

妙本寺まで足を運んだならば、大町四ツ角交差点から少し逗子方面に歩いた場所にある安養院にも立ち寄ろう。こぢんまりとしているが、北条政子が源頼朝の菩提を弔うため、嘉禄元年(1225)に長谷佐々目ガ谷に創建した祇園山長楽寺が前身の寺院。

鎌倉時代末期に現在地に移り、安養院となった。ちなみに創建の年に政子も亡くなってしまったので、頼朝・政子夫妻を供養する寺院とされた。安養院というのは政子の法名。

ツツジの名所としても知られる安養院。
ツツジの名所としても知られる安養院。

境内には北条政子の墓と並んで、徳治3年(1308)に造立された「安養院宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が建っている。大工沙弥心阿の作で、造立された年が判明している宝篋印塔としては、鎌倉に現存する最古のものだ。国の重要文化財に指定されている。

このふたつの塔の背後には、かつては多数の不動明王を祀る祠があった祇園山の斜面が屹立している。昔を知る人によれば、横須賀線の車窓からでも尊像が見られたそうだ。

背後に祇園山を背負った北条政子の墓(左)と安養院宝篋印塔。
背後に祇園山を背負った北条政子の墓(左)と安養院宝篋印塔。

生前の頼朝が夢見た極楽浄土。それを具現化した寺院跡へ

頼朝亡き後、混乱する鎌倉を訪ねる最後のスポットは、頼朝が文治5年(1189)、奥州平泉の藤原氏を攻め滅ぼした後、命を落とした多数の将兵の鎮魂のために建てた永福寺の跡である。頼朝は平泉で毛越寺や中尊寺を見て、それらに倣って永福寺を建立したという。

建久3年(1192)に中心となる二階堂が完成。当時としては、2階建のお堂は珍しかったため、付近の地名となった。そして建久5年(1194)までに二階堂の両脇に阿弥陀堂と薬師堂が完成。これらの堂を中心に惣門、釣殿、多宝塔、鐘楼など、多くの建物が並んだのだ。その光景は「極楽浄土の如く」であった、と伝えられている。二代鎌倉殿の源頼家も、ここで蹴鞠に興じたと言われている。

史跡公園となった永福寺では、発掘調査され池が再現された。
史跡公園となった永福寺では、発掘調査され池が再現された。
さらに主な建物の礎石もみることができる。
さらに主な建物の礎石もみることができる。

鎌倉時代後期には2度の火災で焼失。再建されるも、応永12年(1405)12月の火災で、主な建物がことごとく焼失。その後、再建されることはなかった。現在は復元整備され、史跡公園として親しまれている。

鎌倉駅から歩くと30分近くかかるが、道すがら鶴岡八幡宮、大倉御所跡、源頼朝墓、荏柄天神社、鎌倉宮といった見所が盛りだくさんなので、疲れている暇などないかも。

 

次回は源範頼、源頼家が最期に見た風景が広がる、静岡県の修善寺を歩いてみたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守