“名人”が揚げた絶品かつで客足の絶えない名店に
数多くの飲食店がひしめき合うように雑多な雰囲気を醸し出す神田駅西口。そこから落ち着いた雰囲気が漂う多町大通りを靖国通りに向かって歩くこと7分。神田駅前の喧噪とは無縁の、閑静なオフィス街の一角に『とんかつ やまいち』はある。店の入り口は通りから少し奥まっているが、目に付く看板が出ているのですぐわかる。地下鉄淡路町駅を利用すれば徒歩1分と至近だ。
お店のオープンは2007年。かつて同じとんかつ店で修業した職人が須田町で出した『勝漫』(現在は休業中)から手伝いを頼まれ、長らく調理場を預かってきた松井孝仁さんが、初代の逝去に伴い現在地で独立した。店名の『やまいち』は、修業を積んだ店の屋号だ。
独立前から“名人”と称されるほどの揚げ手だった松井さん。店には松井さんが揚げるかつを目当てに連日多くの客が訪れ、東京でも指折りの名店となっていくが、開店から6年ほど経ったころ、松井さんに病が見つかり、療養のためやむなく一時休業へ。店のドアは、『やまいち』の味を愛し、復活を待つ大勢の常連客らによる励ましの寄せ書きで埋め尽くされた。
妻が2代目となり再びのれんを
休業から2か月、願いかなわず松井さんはこの世を去った。寄せ書きは外され、店の貼り紙は「しばらくの間休業」に変わった。『とんかつ やまいち』はこれまでか。そう思った客もいたかもしれない。
その3か月後、再び店にのれんがかかる。妻の里絵さんが店を再開したのだ。孝仁さんとはアルバイト先の『勝漫』で出会い後に結婚、以来ずっと一緒に働いてきた。
「もともとは、夫婦どちらかが働けなくなったら店をやめようと話していました。ただ、それはまだ先のことと思っていましたし、昔気質の主人はなんでも見て覚えろというタイプで、かつの揚げ方など私には何も教えていませんでした」。
里絵さんが店を再開したことを知った客たちは、歓迎しつつも驚いた。「いくら奥さんでも、あの名人と同等のかつを提供できるのだろうか」と思った客もいたかもしれない。
「最初はなかなかうまく揚がりませんでした。主人の仕事を見てはいましたが、見るのと揚げるのでは大違い。揚げ油の温度も日によって違いますし、注文が入ってから揚げるので1枚1枚時間差があり、それにより油の温度が変わってしまうので火加減が重要。主人ですら、自分が本当に満足できるかつは、1日に2、3枚と言っていたくらいです」。
“ご主人の揚げたてかつ”を目指し、揚げては試食、揚げては試食、それを何度も繰り返し、精進し続けた里絵さん。訪れた客からは「以前と遜色がないばかりか、区別がつかないほど」と喜ばれ、わずか5か月の休業で再び誰もが認める名店へと返り咲いた。
「営業を再開した当初は2年くらいで辞めるつもりでしたが、幸い客足が減ることもなく、このままもう少しやっていこう、あともう1回賃貸契約を更新しよう、そうしているうちに気付けば8年が過ぎていました」。
やわらかジューシー、肉の甘みを感じるかつはただならぬおいしさ
「綿実油・ごま油・サラダ油の3種を合わせた揚げ油を使い、約160度で7、8分揚げると油切れがよくカラッと揚がります」と里絵さん。油の香ばしい香り、かつを鍋に入れた瞬間のジューッ!という音、揚がったかつを切るときのサクッサクッという音もたまらない。
こちらの店では「かつ丼」も有名で人気があるのだが、ここはやはり王道のロースを味わってみたい。せっかくなのでロースはロースでも、上質で提供枚数が少ない「特ロース」を注文した。
運ばれてきたかつは美しいきつね色、見るからにカラッとしていて大きくて、厚みは1.8mmほどと立派。肉の真ん中あたりはうっすらとピンク色で、ちょうどいい火の通り方だ。
卓上にはソースだけでなく、岩塩、醤油、柚子胡椒、おろしポン酢、七味などがずらりと並ぶ。好きな食べ方で楽しんでほしいとのオープン時からの心遣いだ。ふだんはソースしか使わない人も、ここではいろいろな組み合わせを試して、新しいおいしさに出合うことができる。
最初からソースをかけるなど食べ方はお好みだが、「始めは塩で、後から順々に濃い味に移っていくと味のバランスがいいですよ」というアドバイスで、まずはレモンを絞って岩塩をパラパラ。サックサクの衣をまとったロース肉は、しっとりジューシーで、肉と脂の甘みがジュワッと広がり、これまで食べてきたかつとのあまりの違いに愕然。
次はおろしポン酢でさっぱりと、豚肉と相性抜群の柚子胡椒もとんかつに合わないわけがない。〆はソースで。濃いめの味でも、かつがそれに負けていない。結構なボリュームだったがペロリと完食した。
かつはもちろんだが、ごはんとお味噌汁のおいしさも特筆ものだ。つやつやで甘みのあるごはんは、孝仁さんが「うちのかつに一番合う」と選んだあきたこまち。お味噌汁は赤だしで、つるっとしたなめこの食感と三つ葉の香りも実にいい。お代わりする人も多いお茶はそば茶。苦みがなくて香ばしく、揚げ物を食べても口中をすっきりさっぱりさせてくれる。
娘と二人、夫の味とのれんを守り続ける
現在は、娘の希実さんと二人で店を切り盛りする里絵さん。ご主人のかつに引けを取らないと言われるかつを提供し、高評価を継承しても、「自分ではまだまだと思っています。主人が揚げるかつには及びません」と、どこまでも謙虚だ。
今のご自身の姿をご主人が見たらなんと声をかけると思うか尋ねると、「苦笑いしながら、まだまだだねと言うんじゃないでしょうか」と微笑む里絵さん。「私から主人には、なんとかやってるよと伝えたいですね」。
いつも満席、席が空くのを待つ人が絶えず、揚げたてかつを夢中で頬張る客の笑顔であふれている『とんかつ やまいち』。孝仁さんの姿こそ見えないが、心はずっと里絵さんのそばにある。これからも、そのただならぬおいしさで訪れる人を感動させてくれるに違いない。
構成:フリート 撮影・文・取材=池田実香