4月初めの桜が満開の中学校のフェンスに、桜の造花できれいに飾られたフレームだけが掛けられていました。
看板本体がないので文字は読みようがありませんが、伝えたい気持ちはすぐにわかります。おそらく先日まで「卒業おめでとう」と書かれてあったのでしょう。
卒業式が終わった後なぜフレームだけが残されているのかといえば、まだこれから入学式があるから。「入学おめでとう」というポスターが用意されているに違いありません。
だとしたら卒業式と入学式の間のわずかな期間だけ、この看板は中身(コンテンツ)があってもなくても桜飾りの額縁という容器(メディア)だけですでにお祝いの気持ち(メッセージ)を発している──20世紀のメディア論者マーシャル・マクルーハンが言った「メディアはメッセージである」とはまさにこういうことなんですね。
道端に上向きの矢尻型のフレームを見つけました。もともと何だったのかすぐにわかった人は日頃の観察眼に優れています。そう、横断歩道の両側に設置されていた横断旗入れです。
子供が持つ黄色い横断旗そのものを最近めっきり見かけなくなったと思ったら、こんなふうに朽ち果てていたとは。でも、看板が脱落してエア看板になった後はむしろその形状が際立っている。
ロンギヌスの槍というのは十字架に磔にされたキリストの死亡確認のために脇腹に突き刺した聖槍のことで、多くのキリスト教絵画にも描かれていますが、現在では「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する巨大な槍を想像する人の方が多いに違いありません。近寄ってよく見たら支柱に「子供用」と書かれていたのでこれは「運命を仕組まれた子供たち」専用のロンギヌスの槍のようです。
歩道の真ん中に置かれたコート掛けではありません。看板が外された金属枠のようですが、初期のコンピュータグラフィックスで立体をポリゴン表現したときのワイヤーフレームみたいで何やらヴェイパー・ウェイヴ感が漂っています。
向かって右奥の足をくじいているようですが何かあったのでしょうか。右のカラーコーンとともにこのビルの横の歩道への立入禁止を表すために、すでにリタイアしていた要員まで倉庫から駆り出されてきたのかもしれません。どうか倒れませんように。
鳥居型エア看板ですが、とにかく大きくて立派なのです。墓石屋さんの敷地なのですが後ろの石と比べてみるとよくわかります。
ふとマルセル・デュシャンが残した謎多き作品「大ガラス」と同じくらいのサイズではないかと連想しました(高さやアスペクト比が似ている気がします)。しかし、肝心のガラスが入っていないのでこちらはその謎すら存在しません。
デュシャンの名言をそのまま借りて言えば「解答はない。なぜなら問題がないからだ」ということですね。
これもワイヤーフレームを思わせる傑作です。
透明アクリル製のパンフレット入れに日が差して、白い壁に平行線の影を落としているのです。影の部分だけを凝視すると、空になったパンフレット入れが等角投影図法で描かれているように見えてきます。
三次元を二次元に転写するイリュージョンを自然光がかくも見事に表現してくれるとは恐れ入りました。
光の入射角によって透明アクリル板の影の濃淡が異なっているのも絶妙で、光が影で描いた絵画にしばし時を忘れて見入ってしまいました。
文・写真=楠見清