旅館をチェックアウトし、私たちはバスで松本駅に移動する。今日の目的地は松本市の隣の安曇野市。穂高という駅から、北アルプスの山々を眺める予定だ。
「安曇野で山を見たい」というのは母たっての希望だ。私は何度も「本当にいいの? 穂高に行っても何もないよ?」と言ったのだが、母はどうしても安曇野にこだわった。
松本駅に着き、JR大糸線の時刻を調べる。大糸線は1時間に1本しかない。次の電車まで30分ほどあったので、松本駅周辺を散歩していたら発車時刻ギリギリになり、駅の端にある大糸線のホームまで走るはめになった。
大糸線に飛び乗ると、少ししてドアが閉まる。母は肩で息をしていた。70代を走らせてしまって申し訳ない。その少し前に「伯母たち(母の姉たち)の足腰が弱くなって階段の上り下りに時間がかかるようになった」という話をしていたので、母が健脚でよかったと思う。
大糸線は、松本駅から新潟県の日本海側にある糸魚川駅まで長く南北に延びている。松本駅を出るとわりとすぐに安曇野市に入り、のどかな住宅地の中を進むのだが、家々の奥にはもちろん大きな山がそびえている。路線の両側が山なので、左右どちらの車窓からも山が見えるのだ。どこまで行っても途切れることなく山が連なっている。
だからどの駅で降りても山は見えるのだが、行き先を穂高駅にしたのは、そこが私が働いていた山小屋に続く登山口の最寄り駅だから。最寄り駅と言っても、穂高駅から登山口までは乗り合いバスで50分かかる。
松本駅からおよそ30分で穂高駅に到着。穂高駅は、ホームから線路を渡って駅舎へ行く造りになっている。自動改札がないので、切符は駅員さんに手渡しだ。母は都会っ子なので、いちいち感嘆していた。
時刻表を見ると、約40分後に次の上り電車がある。40分も滞在すれば充分だろうと思って母にそう言うと、「嘘でしょ! 観光したりカフェでお茶したりしないの⁉」と言われた。どこにでも観光できる場所やカフェがあると思うなよ。
穂高駅を出ると秋の空は高く、取り囲む山々に音を吸収されたかのように静かだ。空気の質感が、松本のそれとも東京のそれとも違う。鷲かとんびか、なんらかの猛禽(もうきん)類が悠々と飛んでいた。人通りはほとんどなく、駅前ロータリーに停まったタクシーから登山客が降車してくるくらいだ。都会っ子の母もさすがに「観光したい」とは言わなくなった。
穂高で唯一知っているカフェは、残念ながら定休日だった。行く場所がないので、とりあえず駅からほど近い穂高神社を参拝する。穂高神社にはそれなりに人がいた。母に「山小屋で出会った夫婦はここで結婚式を挙げることが多いんだよ」と教える。
母は、なんだかずっと楽しそうだった。「周りがぜーんぶ山なのね」「やっぱり北アルプスって大きいのねぇ」と、何度も同じことを言う。私もそのたび、山小屋時代の思い出話などをした。「山が大きすぎるから山の麓は日没が早いんだよ」とか「バイトのためにはじめて山に登ったとき、地元のおじさんが声をかけてくれて山小屋まで一緒に行ったんだよ」とか。
結局、穂高の滞在時間は40分で足りた。「タクシーで大王わさび農園に行く?」と聞いたけれど、母が「もう充分堪能できたから」と言うので、そのまま松本に戻ることにした。
穂高駅のホームからは、私が働いていた山がよく見えた。「あの稜線の台形になってるとこ、あのへん。登山口からは7時間くらい」と説明する。
「ほんと、手稲山(ていねやま)すら登ったことないくせに、よく北アルプスの山小屋なんて行ったわよね」
母がそのセリフを言うのはこの旅で何度目だろう。
「まぁ、若かったし。私、意外と行動力あるしね」
「北アルプスに行かせるなんて、本当に心配だった。サキちゃんから『具合悪くなった』って連絡来ても助けにいけないし。なんでこの子はすぐ泣いて助けを求めるくせに、ママが助けに行けない場所に行っちゃうのか不思議だった」
母はまっすぐに山を眺めたまま言う。
「あの頃のサキちゃんとママ、ギスギスしていたもんね。サキちゃんはママから逃げ出したくて山に行ったのよね」
その通りなのだが、母もそう認識していたことが意外だった。
前編にも書いたが、幼少期に母からイライラした態度を取られたことや、不登校になったときにひどいことを言われたため、私は母に不信感を抱いていた。
そのせいか、当時の私はとにかく実家から、母から離れたかった。母が嫌いだったわけじゃない。母のことはむしろ好きだ。だけど、私は母の監視下にいる自分が好きじゃなかった。母といると、私は自分らしくいられない。母といると無意識のうちに「母にとっての正解」を探して行動してしまうから、持って生まれた行動力や好奇心を抑え込むことになる。それが苦痛だった。
大人になってから、中華街の占い師に「あなたは何よりも自由を求める人」と言われたことがある。私は「自由になりたい!」と思ったことはないので、その言葉がピンとこなかった。だけど、私が自由を求めたことがないのは、私がずっと自由だったからかもしれない。もしも自由を奪われれば、私はそれを渇望するのだろう。
「あのとき、ママはサキちゃんを信じてなかった。この子は弱いから山小屋でなんて働けるわけないと思ってた。でも、サキちゃんは本当はママが思うよりずっと強かった」
母のことが好きなのに、なぜこんなにも母から離れたいのか、当時の私はうまく説明できなかった。今ならわかる。登山経験がないのにいきなり3000m級の山小屋でバイトする行動力を持ち合わせて生まれた私は、保守的で生真面目な母のもとで生きるには不向きだったのだ。
それだけのことを、当時は母にうまく伝えられなかった。きっと母は、「娘から嫌われている」と思ったのだろう。
「あのとき山に行くことを選んだからこそ、今のあなたがいるのね。サキちゃんを育てたのはママじゃなくて北アルプスだわ。ママはこんなに上手にあなたを育てられなかった」
母の声に嗚咽が混じり、慌てる。見ないふりをしたのに、母の目に涙が溜まっているのを見てしまった。
「私を育てたのは紛れもなくお母さんだし、私はお母さんに育ててもらってよかったよ」
そう言いたかったけど、取ってつけたように思われそうで言えなかった。
未経験からフリーライターになって、有難いことに仕事が途絶えたことがない。それはたぶん、締め切りを守るとか取材に遅刻しないとか、私がある程度きちんとしているからだ。私をそんな人間に育ててくれたのは母で、どれだけ感謝しても足りない。
生まれ変わってもまた、母の娘がいい。たとえまた、うまくいかない時期を経たとしても。
松本に戻ると、なわて通り商店街や中町通りを観光した。どちらも観光客でにぎわっている。なわて通り商店街にはカエルモチーフの雑貨がたくさんあって、ふたりで「これかわいい」などと言い合いながら歩いた。中町通りでは、作家物の雑貨を扱う小さなギャラリーや鉱石を扱うお店、職人が作る家具屋さんなどをひやかした。
昔は、新しいもの好きの私と保守的な母は好みが合わなかった。「もしお母さんと同級生だったとしても絶対に友達にならないだろうな」とまで思っていた。けれど、大人になるにつれて私の性格や感性が母に似てきたため、最近はすごく気が合う。一緒にいると、まるで友達のようだ。
駅のほうに戻り、おみやげ物屋さんに行った。私は何も買わなかったが、母はお菓子や漬物など、5千円ぶんものおみやげを買い込んだ。
そのあとは手打ちそばのお店で遅めのランチを食べた。職人さんがそばを打っているのがガラス越しに見える。久しぶりに食べた手打ちそばは、若い頃に食べたそれよりもおいしかった。店の味が変わったのではなく、私の味覚が加齢によって変わったのだろう。
帰りのあずさの切符はもう買ってある。電車の時間まで1時間あったので、駅のパン屋さんでお茶をしながら時間をつぶした。
帰りのあずさでは、母も私もあまり話さなかった。窓際の席で景色を眺めながら、私は昔のことを思い出していた。
母から逃げるように山小屋へ行き、下山後は調布で一人暮らしをして、2年も経たないうちにメンタルを病んで実家に舞い戻った。それからは、山小屋シーズンは山で過ごし、冬は実家で過ごした。
この時期が私はけっこう辛かった。実家で何不自由なくぬくぬく過ごしている、自立できない自分が許せなかったし、母からの干渉も嫌だった。今思うと、母の態度はそこまで支配的でも過干渉でもなかったのだが、たとえば出かけるときに「誰と会うの?」といちいち聞かれるとか、そういう些細なことがストレスだった。
「もう大人なんだからほっといてよ」と言いたい気持ちと、「でも実際にほっとかれたとして、私は一人では生きていけないもんな」という気持ち。一人暮らしに挫折した情けなさもあって、私はモヤモヤとした思いを抱えながら生きていた。
26歳のあるとき、一念発起して「遅れてきた反抗期」を演じたことがある。自分が精神的にも経済的にも自立できないの思春期にちゃんと反抗期を経験しなかったからじゃないか、と考えたのだ。しかし、私の反抗期は失敗した。慣れていないから反抗の仕方がわからず、ただワガママを言って無駄に母を悩ませただけで終わった。
母との関係が劇的に変わったのは、29歳のとき。私が結婚したことがきっかけだ。
私は結婚と同時に夫(今は別れている)と、南米とスペイン巡礼の旅に出ることにした。メンタルが不安定な私が半年も海外を旅するなんて、母は心配だったろう。けれど反対はしなかった。夫に「もし旅の途中でこの子の具合が悪くなったら、すぐに日本に連れて帰ってきてください」とだけ言い、送り出してくれた。結局、私は半年間の旅をやり切って、精神的にも肉体的にもたくましくなって帰国した。
その後、私はフリーランスのライターになった。未経験からの挑戦で最初はぜんぜん稼げなかったが、母は何も言わず見守ってくれた。おかげさまで仕事は順調に増えて、母と旅行できる程度には稼げるようになった(今回の旅行はお互いに自分のぶんは自分で出している)。
思えば、母はずっとそうだ。私が新しいことに挑戦するたび、眉間にしわを寄せて心配そうに「大丈夫なの?」と言うが、私の決めたことには反対しない。東京の学校に行くときも、山小屋に行くときも、旅をするときも、ライターになるときも、決して反対しなかった。私のやりたいように、自由にさせてくれた。
私は大人になって、やっとそのありがたさに気づけた。同時に、母はあまり心配をしなくなった。私が旅から帰ってきたあたりから、母の「大丈夫なの?」は「あなたなら大丈夫!」に変わった。
それでわかった。私は小さいときからずっと、心配じゃなく応援をされたかったのだ。弱いくせに大胆で行動力があって挑戦が好きな私を、母とは違う個性を持った私を、応援してほしかった。
今の母は、これでもかというほど私を応援してくれる。私以上に私を信頼してくれて、「忙しすぎて締め切りを乗り切れるか心配」と弱音を吐くと、「あなたが乗り越えられなかったことなんてないでしょう?」と笑い飛ばしてくれる。その言葉に、何度救われたことか。
お母さんとこんな関係になれるなんて、子供の頃は思ってもみなかったな。
もう少しで、あずさが八王子に着く。夕飯の相談をしようと母のほうを向いたら、眠っているかと思った母は起きていて、「もうすぐだね」とうなづき合った。
文=吉玉サキ(@saki_yoshidama)