火あぶり地蔵
昔々、現在の千住仲町付近にあった掃部(かもん)宿というところに、人柄のいい母親と娘が二人で住んでいました。
父がかなりの借金を残して亡くなったため、母娘二人は借金の返済のため一生懸命に働く日々。
しかし、母と娘の収入では生活するのが精一杯で、借金を返す余裕などない苦しい生活を送ります。
そんなとき、現在の埼玉県草加市瀬崎町周辺である瀬崎村の大尽(お金持ち)が屋敷の女中を探しているという話を聞き、娘は奉公に出ることになりました。
働き者の娘はここでも皆から可愛がられ、よく働き、借金も徐々に返済していきます。
しかし、それから数年が経ったある日、長い間の無理がたたったのか「母が病に倒れた」という報せを受け取ります。
娘は母の元へ行くために奉公先の主人に休みをもらおうと何度も事情を話してお願いしますが、主人は全く聞き入れてくれません。
思い悩み、考えぬいた末、娘は「この家がなくなれば」と屋敷に火を放ちます。
幸い被害は少なく済みましたが、放火は大罪。娘はこの地で火あぶりの刑に処されてしまいました。
放火の理由を知った村人たちは娘に同情し、彼女の霊を慰めるためにお堂を建立。
安置されたその地蔵はいつしか「火あぶり地蔵」と呼ばれるようになりました。
フィールドワーク①谷塚駅から火あぶり地蔵を探す
まずは東武スカイツリーラインの谷塚駅東口から、火あぶり地蔵尊のある瀬崎村(現在の瀬崎町)に向かいます。
駅を出てから谷塚駅入口交差点までまっすぐ進み、東武スカイツリーラインの草加駅方面に左折しましょう。
現在の瀬崎町は、もともとは武蔵国足立郡谷古田領に属する瀬崎村として、江戸幕府が直轄している幕府領(天領)でした。
この土地が埼玉県の管轄となったのは1871(明治4)年。
1955(昭和30)年に草加町の大字となり、そこから3年後の1958(昭和33)年の11月に「草加町大字瀬崎」から「瀬崎町」になります。
谷塚駅入口交差点には瀬崎浅間神社があります。
この瀬崎浅間神社の創建年代は不明ですが、1873(明治6)年に村社になり、1907〜1909(明治40~42)年の間に周辺にあった9社と合祭したといわれています。
この地の鎮守として大切に祀られている神社だそうです。
足立越谷線を草加駅方面にしばらく歩いて行くと、火あぶり地蔵尊のある吉町5丁目交差点に到着します。
フィールドワーク②火あぶり地蔵尊
こちらが「火あぶり地蔵尊」です。
放火罪は人的・物的に大きな損害を出すため、昔から重い罪であったとされています。
江戸時代における火罪は、罪人を市中引き回しした後、火あぶりにするという惨(むご)いものでした。
残念ながら取材時は扉が閉じており、火あぶり地蔵尊を直接見ることはできませんでした。
通常時は閉じていますが、毎月24日には扉が開いてお参りができるそう。
冒頭の「火あぶり地蔵」の話ではこの瀬崎町周辺を「昔の処刑場跡」と言っていますが、調べてみてもこのあたりに処刑場があったという記録は見つかりませんでした。
しかしさらに調べていくと、江戸時代、江戸付近で放火を行った罪人の火罪はほとんどの場合、小塚原刑場(江戸時代から明治初期まで千住宿にあった処刑場)あるいは鈴ヶ森刑場(品川区にあった処刑場)で行われたということがわかります。
母親と娘が住んでいたのは千住仲町付近にあった掃部宿。立地的に、おそらく娘は小塚原刑場で火罪に処されたのでしょう。
調査を終えて
火あぶり地蔵尊を訪れてみて、調べて記事を書いていくうちに、どうしようもない、なんでこんなにも悲しい話なのだろうと思いました。
火罪に処された罪人は、三日三晩亡骸を晒されたと言います。
もし娘が火あぶりにされた場所が小塚原刑場であったとしたら、病に倒れていた掃部宿の母にもそれは報されているはずです。
母親は晒された娘の亡骸を見ずに済んだのか否か。
どちらであっても自分のせいで誰かを亡くすということは、言葉にできないほど悲しいことだろうと考え、胸が締め付けられるような気持ちで火あぶり地蔵尊をあとにしました。