《遊子》とは何ぞや?
小諸なる古城のほとり
雲白く、遊子悲しむ……
島崎藤村作「千曲川旅情の歌」の冒頭の一節だ。
ここに出てくる《遊子(ゆうし)》とは、一般に「旅人」と解釈されることが多い。ま、リアルな旅人というより、人生における旅人、迷い人、夢追い人、モラトリアムを生きる人的なニュアンスか……。人によっては藤村自身のことであるという。
さて第40作『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』では、前半の舞台が小諸ということもあって、この詩にスポットが当たる。そこで登場人物の面々は、いささか飛躍気味に《遊子》の解釈を展開~。
「《遊子悲しむ》の遊子って、寅さんみたいな人を言うのよ、きっと……」
と小諸の女医・真知子先生(演:三田佳子)。その言葉に気を良くした寅さん。帰京後も「とらや」のお茶の間で一席ぶる。
寅さん「小諸なる古城のほとり、雲白く、遊子悲しむ……」
おいちゃん「なんだそりゃ?」
満男「島崎藤村の詩だろ?『千曲川旅情の歌』」
寅さん「さすがは受験生。ついでに訊くが、《遊子》とは誰のことを言っているか知ってるか?」
おばちゃん「真田十勇士のことじゃないかい?」
寅さん「頼むよおばちゃん。教養のない人間は黙っといてくれよ」
満男「要するに伯父さんみたいな人のことじゃないの?」
寅さん「満男、おまえ確かに勉強している」
と、口々に「寅さん=遊子説」を唱えている。
ん? ちょっと待てよ。
真知子先生や満男が言うように
遊子=寅さん
ならば、《遊子》と解釈される藤村は、寅さんは似ているってこと?
かたやヤクザな渡世人、かたや近代日本を代表する文学者、なんだか結びつかないような気もするけど……。
とまあ、そんなことぼんやり思いながら、信州は小諸に出向いたのだった。
藤村と寅さんの生い立ち
まずは島崎藤村の生い立ちから見ていきたい。
藤村は、明治5(1872)年3月25日筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に7人兄弟の末っ子として誕生。島崎家は馬籠で代々宿場や庄屋・問屋を務めている家柄で、父親の正樹は国学者だった。
その影響を受け、小学校の時分にはすでに詩経、論語、孝経などの中国の古典、松尾芭蕉などの日本の古典に触れるほどの文学少年だった藤村。さしづめインテリだな。
しかし14歳の頃、父・正樹が新しい明治の世を憂い、発狂の末、獄死する。う~ん、けっこうシビアな生い立ちだ~。
一方の寅さん、父親の車平造が芸者に生ませた婚外子として生を受け、およそ文学とは無縁の幼少期を送る。寅さんは平造との折り合いが悪く、15の頃にはプイッと家出……。後の話はご承知の通り。詳細は山田洋次著『少年寅次郎』に詳しい。
藤村と寅さん、生まれ育った環境は大きく違うが、どちらにも親に対する愛憎、業の深さが垣間見える。
藤村と寅さんの女遍歴
ご存じ、寅さんは26年間全48作にわたって、
冬子夏子志津春子節子夕子花子貴子歌子千代リリーりつ子京子礼子ぼたん綾鞠子藤子奈々子早苗ひとみ圭子すみれふみ光枝かがり螢子はるみ風子ふじ子若菜真知子美保りん子隆子真知子久美子寿子礼子聖子蝶子葉子典子
の計44人の女性に恋をする。その数、尋常じゃない。
一方の藤村の女性遍歴もなかなかのもの。その生涯で、
輔子
冬子
こま子
静子
の4人の女性と恋愛関係を持つ。
まあ人数だけ見りゃ「あ~ら藤ちゃん、お盛んね♥️」って程度か。しかしその内容が問題ありありで……、
1892年頃(20歳頃):教え子の輔子(許婚者あり)と恋仲に
1895年(23歳):輔子自殺
1899年(27歳):冬子と結婚
1910年(38歳):冬子死去
1911年(39歳):姪のこま子を妊娠させ、フランスへ逃亡
1916年(44歳):帰国後、こま子との関係が再燃
1928年(56歳):24歳下の静子と再婚
と、道ならぬ恋、近親相姦、国外逃亡、焼け木杭(ぼっくい)に火的恋愛、年の差婚と、危険で過激で刺激的な色恋沙汰のオンパレード! ガソリンスタンドで焚き火しながら麻婆豆腐を作るようなもんだ。
ともあれ、寅さんと藤村、どちらも恋路は波乱万丈……、いや、波乱万丈にもホドがあるぞ、ホドがっ!
藤村の小諸時代
そんな藤村は、明治32(1899)年、小諸の旧制中学・小諸義塾に英語・国語教師として赴任する。赴任直後に冬子と結婚し、3女をもうけ(ただしいずれも早世)、明治38(1905)年までの6年間を過ごす。
浅間山の裾野に位置し、小諸城の城下町として、また北国街道の宿場町として発展してきた小諸。今でも往時の風情を色濃く残す本町周辺には、藤村ゆかりのスポットも数多い。
それらのスポットを巡り歩いて思うのは、いち赴任地なれど藤村にとって小諸は特別な町……、たとえるなら寅さんにとっての柴又のような町だったんじゃないかってこと。
千曲川は江戸川……。
勤め先の小諸義塾の校舎や小諸城跡は、さしずめ帝釈天題経寺……。
寓居(仮住まい)のあった北国街道の宿場町は帝釈天参道……。
その寓居の近くにある、使っていた井戸は、さしずめ寅さんが産湯を使ったと言う帝釈天の井戸か……。
また藤村が原稿用紙を買った店(「大和屋紙店」)や、ひいきにしていた料理屋(「揚羽屋」)などが現存しているのも興味深い。
ちなみに藤村は晩年、神奈川県大磯町に居を構えるが、その地に決めたのは風情が小諸に似ていたからだとか……。
寅さんの故郷が柴又であるように、藤村にとっては小諸が心の故郷なのだ。
「千曲川旅情の歌」と第20作の「寅のアリア」
藤村が詩集「千曲川のスケッチ」を書き始めたのは小諸に来て1年目(1900年)のこと。
この詩集のなかでも、『寅次郎 サラダ記念日』で触れられている「千曲川旅情の歌」はつとに有名だ。信州の山河をゆく若い旅人の哀愁や望郷の念が表され、やけに切ない。
一方、通称「寅のアリア(独唱)」と呼ばれる寅さんのひとり語りにも、叙述詩そのものと思えるものがいくつかある。
〈第10作〉信濃路はもう秋
〈第11作〉旅の灯り(第1部、第2部)
〈第13作〉温泉津の朝
〈第16作〉寒河江エレジー
〈第20作〉秋の日の押し売り
〈第31作〉佐渡の連絡船
〈第46作〉瀬戸の連絡船
〈第48作〉島唄かなちゃん
などなど。なかでも特筆すべきは「秋の日の押し売り」(第20作)だ。
「たとえば俺は旅をしている。秋の陽はつるべ落としよ。遠くの寺でゴーンと鐘の音が聞こえる。(中略)もう矢も盾もたまらなくなってよ、飛ぶようにして一目散に帰ってきた。帝釈天の参道、寺の山門、土産屋の家並……。ここだけは昔と変わっちゃいねえ……」
これ、語り言葉と書き言葉の違いこそあれど「千曲川旅情の歌」の世界観そのものじゃん!
旅先で故郷を思う様から、旅人の哀愁と旅情がにじみ出る。
寅さん、あんたも詩人だねえ。
小諸の雲に訊く。寅さん藤村、同一人物?
生い立ちの愛憎、波乱に満ちた女遍歴、故郷の風情、そしで詩……。藤村と寅さんは何かと共通点が多い。てか、もう別人という気がしない。
「男はつらいよ」シリーズは、藤村が寅さんの姿を借りて映像化されたのでは……とも思えてしまう。
奇妙な軌跡の交錯を感じた旅の終わりに、藤村が詩を詠んだ小諸城跡に立って、頭上の雲を仰ぎ見る。
そう言えば寅さんもさくらと江戸川土手に腰掛けている時、悲しげに呟いていたっけ(第9作『柴又慕情』)。
「ほら見な、あんな雲になりてぇんだよ」
寅さんは雲に憧れを重ね、遊子(藤村)は哀愁を覚える。一見、対称的だ。でも、寅さんが江戸川で見上げた雲と、藤村が小諸城跡で見た雲、ありゃきっと同じ雲だね。
取材・文=瀬戸信保 イラスト=オギリマサホ