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子どもの頃、お盆は函館にある父の実家で過ごした。

父の実家は函館の上湯川という町にある。当時は父の生家が残っていて、そこに父方の祖父母が住んでいた。私は同居する母方の祖父母を「おじいちゃん・おばあちゃん」と呼び、年に一度だけ会う父方の祖父母を「函館のおじいちゃん・函館のおばあちゃん」と呼んでいた。

札幌の我が家から函館のおばあちゃんちは、今現在の道路事情なら車で4時間弱で行くことができる。しかし当時はまだ開通していなかった道路があり、6時間以上はかかった。子どもにとっては長旅だ。

函館に行く日は夜中の3時頃に起こされ、車に乗る。運転席に父、助手席に母、後部座席に兄と姉と私。チャイルドシートのない時代、私は兄と姉に挟まれて座席の真ん中に座り、頭をぐらんぐらんさせて眠った。

次に目を覚ますと、窓の外はうっすら明るい。札幌よりもずっと建物が少なく、緑豊かだ。子ども心に「田舎に来たんだ」とわかった。

私は何度も「まだ?」「もう函館?」と尋ね、そのたびに父は「あと3時間」などと答える。しかし子どもの私は時間の感覚がわからない。ずいぶん経った気がして「もう3時間経った?」と聞くと、「まだ30分しか経ってないよ」と笑われた。

途中の長万部という町に着くと、ドライブインに車を停めて休憩した。母が作ってきたおにぎりを食べることもあれば、食堂でラーメンを食べることもある。外食することが少ない我が家にとって、長万部のドライブインのラーメンは数少ない外食の思い出だ。

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午前9時か10時頃、ようやく函館のおばあちゃんちに着く。家のまわりは畑と住宅しかなく、少し歩いたところにコンビニがある。唯一、おばあちゃんちから徒歩で行けるお店だ。

家の前に私たち一家の車が到着すると、函館のおじいちゃんとおばあちゃんが出迎えてくれる。札幌の言葉は標準語に近いが、函館の言葉は青森のそれに近い。祖父母は函館訛りな上に高齢で滑舌がよくなかったため、何を言っているのかよくわからず、私は曖昧に笑って誤魔化した。

車のトランクから荷物を下ろして古い平屋に入ると、蚊取り線香の匂いがする。居間には父のきょうだいたちとその家族がいて、小さなテレビで高校野球を眺めている。

大人たちはお土産を交換し合い、大げさな挨拶を交わす。母は嫁の立場だから当然かもしれないが、この家で育ったはずの父もどこかよそよそしい。私は、父が祖父母に対して「いやぁ、どうもどうも」といかにも営業用の(父は実際に営業職だ)挨拶をすることに、子どもながらに違和感を覚えていた。

函館の親戚は、私たちきょうだいに口々に「大きくなったねぇ」と言う。「ありがとうございます」と答えるのも変な気がして、またもや曖昧に笑って誤魔化した。

また、函館のおばあちゃんと伯母たちは「いっぱい食べなさい」と言って、いかめしや茹でとうきびやスイカを次々に出してくれる。私は断るタイミングがつかめず、お腹がいっぱいでも無理をして食べた。

正直、函館のおばあちゃんちは気を遣う。同居している祖父母とはリラックスして過ごせるが、函館の祖父母とは年に一度しか会わないのでどうしても心の距離が遠い。

それでも函館のおじいちゃんとおばあちゃんが私を可愛がってくれているのはわかっていたので、子どもらしく懐けないことが申し訳なかった。

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私が小学生になると、歳の離れた兄と姉は部活が忙しくなり、函館帰省に同行しなくなった。もともと函館帰省は退屈だったが、兄と姉がいないとなるといよいよ退屈で困ってしまう。

函館のいとこはみんな兄と姉と同世代で、徐々におばあちゃんちに顔を出さなくなり、大人の割合が増えた。石狩(札幌の隣町)に住む父の妹一家が来ると、2つ下と4つ下の男の子のいとこがいるので、子どもが自分だけじゃなくなってほっとした。

当時はスマホもインターネットもないし、おばあちゃんちにはテレビゲームもない。ひとつしかない小さなテレビでは、大人たちが高校野球を見ている。歳の近いいとこが来てもなお、私は暇を持てあました。

私はひたすら漫画や小説を読んで時間を潰した。小さな家なので一人になれる部屋はなく、周囲に人がいる状態で本を読むのは集中できなかった。

大人たちはよく「年寄りの家は退屈でしょう?」と言った。それを肯定するのは失礼な気がして、私は曖昧に笑った。この家では曖昧に笑ってばかりだ。

退屈以上に嫌だったのが、汲み取り式のトイレだ。まさか平成に汲み取り式トイレが存在するとは。私はこの家以外で汲み取り式トイレを見たことがない。汲み取り式のトイレは臭いし、便槽の中に何かが潜んでいそうで怖かった。しかし小学生ともなると母に「ついてきて」とは言えず、ギリギリまでトイレを我慢した。

また、廊下の壁に取り付けられている鏡も怖かった。映るはずのないものが映ってしまったらどうしよう。私は怖くて怖くて、夜に廊下を通るときは鏡を見ないよう目を逸らした。

函館のおばあちゃんちで唯一好きだったのは、台所の横にある部屋の本棚だ。そこには父たちきょうだいの本が残されていた。赤川次郎の小説や、有名な推理小説の名探偵(ホームズやポワロなど)を紹介する本があり、面白かった。

本棚は唯一、父がこの家で育ったことを感じさせるものだった。父は読書家なのだ。

しかしそれ以外は、この家から父の痕跡を感じることはなかった。

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函館の大人たちはよく、「お父さんとおじいちゃん、そっくりでしょう?」と言った。父と函館のおじいちゃんは瓜二つらしい。

しかし、私は似ているとは思わなかった。父はやや太っているが、函館のおじいちゃんは痩せていて弱々しい。みんなは若い頃のおじいちゃんを知っているから、父と似ていると思うのだろう。

函館のおじいちゃんは無口で穏やかな印象だった。しかし父が言うには、昔はとても怖い雷親父だったそうだ。父は実家にいた頃、よく怒鳴られて家を追い出されたという。そう言われても、私にはおじいちゃんが怒鳴るところが想像できない。また、息子として怒られている父も想像できなかった。

函館のおばあちゃんは、小さくて優しい人だった。同居していたおばあちゃんと比べると、声が小さくておとなしい。

函館のおばあちゃんはいつも、私たちが札幌に帰るとき「帰りの車で食べなさい」とおにぎりを握ってくれた。おばあちゃんが作るおにぎりはとても美味しくて、私はぱくぱくと平らげた。

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私が小4のときに函館のおじいちゃんが、中2のときにおばあちゃんが亡くなった。私はそれを悲しいと感じることができず、「よくしてもらったのに申し訳ないな」と思う。

私が最後に函館のおばあちゃんちに行ったのは、おばあちゃんの一周忌のときだ。そのあと、函館のおばあちゃんちは取り壊された。

退屈な思い出しかない家だが、なくなると思うと寂しい。私ですらそうなのだから、あの家で育った父はどれだけの喪失感を覚えただろう。

いつか自分の実家が失くなることを考えると、想像しただけで胸にぽっかりと穴が空くようだった。

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私は今、札幌の実家でこの文章を書いている。お盆だから帰省中だ。

もうすぐ、姉の子どもたちがやってくる。姉夫婦の仕事が忙しいため今年は帰省しない予定だったのだが、小6の姪が「サキちゃんがいるなら札幌のおばあちゃんち行きたい!」と言い出し、子どもたちだけで来ることになったのだ。

私が育ったこの家は、甥姪にとって「札幌のおばあちゃんち」だ。私にとって函館のおばあちゃんちがそうだったように、甥や姪にとっても、札幌のおばあちゃんちは退屈なものだろう。コミュニケーションに困って曖昧に笑って誤魔化すことも、「リラックスできないな」と感じることも、あるかもしれない。

それでもいいと思う。ものすごく楽しい思い出じゃなくても、大人になってみればちゃんと懐かしいから。

甥姪たちが大人になったとき、私の実家はもうないかもしれないし、私の両親もこの世にいないかもしれない。けれど、札幌のおばあちゃんちで過ごした夏休みを思い出して、彼らが穏やかに笑えたらいいな。

いつか思い出になるこの夏を、とりあえずはじっくり味わおうと思う。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
2022年12月30日、年の瀬の常磐線・磯原駅に人の姿は少なかった。改札前のベンチに男性が1人腰かけていたので、私は誰もいない窓辺までスーツケースを引きずっていき、母に電話をかけた。「今、磯原駅。さっきまでKさん(夫)の実家にいたんだけど出てきちゃって……。これから町田に戻る。明日、札幌行きの航空券を取ったの。実家で年越ししていい?」「もちろん。あなたが町田で1人で泣いているより、実家に帰ってきてくれたほうがよっぽどいいわ」駅に来る前に事情をLINEしていたせいだろう、母はすんなりと飲み込んでくれた。通話を終えて、改札前の大きなベンチに座る。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
昔から、小心者でメンタルがひ弱で依存心が強い。今はひとり暮らしだし、ライターとして経済的には自立しているのだが、「精神的に自立できているか」と問われれば自信がない。30代後半になった今も、私は甘ったれだ。