奇跡的に残る都内の里山には戦車橋と陸軍の壕がある
この丘陵地帯には「横沢入(よこさわいり)」と呼ぶ里山が残されており、宅地化が迫っているなか、奇跡的に開発の手が入り込んでいない場所です。現在はあきる野市の「横沢入里山保全地域」となって、里山がつくりだす自然が残されています。
横沢入へ訪れた時の感想は「おお、まさにトトロの世界だ」。
里山はなんでもトトロなのか! と突っ込みたくなるほど月並みな表現ですが、横沢入は過去に宅地開発の計画があったものの、東京に残る貴重な場所とのことで保全されています。丘陵が入り組み、田畑が連なって、小径にはいろいろな虫がいる。東京の武蔵野はかつてこうだったのかと教えてくれる、大変貴重な地域です。大人にとっては郷愁を誘う里山情景、子供は自然に触れながら学べ、四季を通じて楽しめます。
さて、ここへ訪れるのは2回目です。自然を満喫したかったからではなく、あるものが遺棄状態にあるからです。田んぼ脇の小径を進んでいくと横沢入を紹介する看板があり、気になる文字が2つ、「戦車橋」。およそ、のどかな里山とは似ても似つかない文字です。さらに「地下壕」の文字。戦車が埋められた橋? あるいは戦車が通った橋? 想像力を掻き立てられます。それに地下壕があったとなると、丘陵地帯を利用した秘匿基地があったのか……。
はい、実際に横沢入は陸軍の物資を隠すため、先の大戦末期に壕が急造されました。
前回訪れたあと簡単に調べると、一帯は陸軍の秘匿基地のような存在でした。昭和20(1945)年、いよいよ本土決戦への備えが全国で開始されました。武蔵増戸駅近くの増戸小学校には、陸軍第一総軍の東部64部隊本部が置かれ、横沢入の丘陵地帯に壕を掘削。この壕に秘匿されたのは、戦車や航空機の部品であったといいます。壕の数は27ヶ所に及んだそうですが、現在確認できるのは4ヶ所ほどです。
2ヶ所の戦車橋は草に埋もれていた
では、気になる戦車橋へ向かいましょう。訪れた季節は夏真っ盛り。里山の光景は蝉時雨と夏虫の鳴き声が心地よく、やっぱりトトロの世界だよなぁと思いつつ、頭の片隅ではちょっと不安がありました。前回、10数年前に訪れたのは春。遺構は難なく観察できました。今回は地面も覆うほど植物が生い茂る夏です。草は遺構を覆っていないだろうか。
立派な一本木が目印の分岐道を折れ、さらに幅狭な小径を歩いていると、その不安は的中します。土から何やら鉄の物体が顔を出している……。これは踏切跡か? と間違えてしまいそうなほど、鉄の形態が分かりません。前回は姿がむき出しであったのに、ほぼ草で覆われてしまっています。
第1の戦車橋です。細長い台枠は、中心部に曲線のついた横梁があります。一見すると鉄道車両の台車か、貨車の台枠に見えなくもない。それがいきなり土の道からヒョイっと顔を出しているのです。
たしかに、小川に架かっています。
うーん、でも全体像が分からん。
戦車橋はつまづきそうな感じで土に埋まっている。何やら鉄の物体がある。現場で分かるのはそれだけです。来る季節を間違えてしまったか……。
気を取り直して、第2の戦車橋へ行きます。その前に木立の中を歩いていると、左手に穴の開いた壕がありました。壕は人の高さよりも上にあります。地面から重量物を持ち上げて隠すには、かなりの労力が伴います。増水の危険性がある地域ではないのに。
歩みを進め、もう1ヶ所の戦車橋へ到着。あ、ここもダメか。前回は剥き出しとなった台枠がゴロンと転がっていたのですが、場所こそ移動していないものの、ここも草で覆われてしまっている。本来は全体像が見えるはずなのだが、草に隠れて何もかも分からない。これではいつものように観察できないではないか……。
完全に来る季節を間違えましたね。自然が元気であることは、我々廃なるもの探索者にとっては、全体像が見えずに仇となります。草の合間からかろうじて台枠の構造は見て取れるものの、横沢入はマムシが生息していると注意書きがあちらこちらにあり、こういった草むらからガブっと噛まれたら洒落になりません。深入りはやめましょう。
次回は草に埋もれた遺構の答え合わせとして、2008年4月に撮影した作品をお見せしながら、この台枠についてお話します。
取材・文・撮影=吉永陽一