実の孫をも陥れた北条時政
そもそも頼家が母・北条政子の実家と対立するようになったのは、妻の実家である比企氏を重用するようになったからだ。そのため北条氏側もそれに対抗し、頼家を排除したうえ、政子の妹である阿波局が乳母を務めた、次男の千幡を将軍に据えようと画策する。
そのような微妙な力関係が働いていた建仁3年(1203)3月、頼家は病を得てしまう。かなりの重病だったようで、頼家は自分の子である一幡を後継者と考えた。一幡も自分と同じように、比企の館で育てられたからだ。
5月になると頼家は、弟の千幡(後の源実朝)の乳母夫であり叔父でもある阿野全成を粛清してしまう。しかも阿波局も捕えようとした。だが姉の政子が庇ったことで、阿波局は難を逃れた。北条氏と頼家の対立は深まるばかりであったが、7月半ばになると頼家の病は重症化、8月には危篤に陥る。その際、家督は一幡に譲るように手配している。
このまま比企の血を引く子が鎌倉殿になると、北条家の力はたちまち衰退する。そこで頼家の祖父である北条時政は、朝廷に「9月1日に頼家は亡くなったので、千幡が跡を継いだ」という偽の報告を送り、翌2日に比企家を攻め滅ぼしてしまったのである。その際、頼家の妻や子も亡くなっている。
時政にとって誤算だったのが、頼家が奇跡的に回復したことだ。嫡男や妻が死に、さらに比企氏が滅ぼされたと知ると、頼家は激怒する。そして和田義盛と仁田忠常に時政を討つように命じている。
だが北条派であった義盛は、このことをすぐさま時政に伝えた。時政は9月7日、「頼家は病気で正常な政務が執れない」という理由をつけ、頼家を出家させたうえ即座に修善寺に幽閉。この日は、皮肉にも頼家死去という偽の知らせが、京に届いていた。
北条家の目が行き届く修善寺は格好の幽閉先であった
「此の里に かなしきものの 二つあり 範頼の墓と 頼家の墓」
明治25年(1892)、修善寺を訪れた際に正岡子規は、このような歌を詠んだ。そう、幽閉の地として修善寺の地名が登場するのは、これで2度目なのだ。最初は曽我兄弟の仇討ちの際、頼朝が死んだと思い、迂闊なことを言ってしまった弟の源範頼が、謀反を疑われて幽閉されている。
今では伊豆有数の観光地として知られる修善寺だが、この時代は北条氏が目を光らせている「幽閉の地」であった可能性が高い。というのも、伊豆は北条氏の本拠地であり、修善寺から10kmほど北にある守山の麓が、北条氏の館がある地であった。北条義時の領地である江間も、ほぼ同じ距離である。そのため監視の目が行き届くうえ、他国との連絡がつけにくい盆地の修善寺は、危険視された人物を置いておくのに、最適だったと思われる。
範頼、頼家ともに正岡子規の歌にあるように、悲しい最期を遂げている。範頼の配流が決定したのは建久4年(1193)8月17日。すぐさま修善寺に連行された。その後、範頼の消息は不明である。ドラマでは善児という架空の刺客の手にかかってしまう。そのように物語を膨らませられるほど、修善寺に流された後の範頼に関しては、記録が残されていないのだ。ただ、殺害されたというのは定説となっている。
範頼が幽閉されていたとされる場所は、修禅寺八塔司(はったす/禅宗における寺内寺院)のひとつ信功院であった。それは現在、修禅寺のすぐ隣りにある日枝神社となっている。境内には範頼の庚申塔があり、解説板には「梶原景時五百騎の不意打ちにあい防戦の末自害」と記されている。修善寺では景時が範頼を討ち取ったことになっているのだ。
観光客の姿が絶えない修禅寺や、その門前を流れる桂川の河原にある弘法大師ゆかりの「独鈷の湯」と違い、境内はとても静か。夫婦杉の大木や、九州地方が生息地で伊豆では珍しい一位樫の大木がそびえ立っている。
ちなみに現在地名は「修善寺」で、同地にある古刹は「修禅寺」、どちらも「しゅぜんじ」と読む。このような表記となった経緯については諸説あるが、NHKでは時政・義時の時代の寺名は修善寺であり、寺名が「修禅寺」となったのは、禅宗が全国に普及してから後、という説をとっているようだ。
さほど広くないエリアに見所が凝縮。誰でも散策が楽しめる修善寺
ところで修善寺で散策したい場所は、独鈷の湯を中心に半径300mほどのエリアに集中している。そのため、見逃した場所に戻ったとしても、それほど疲れないから安心。だが頼家の墓は残念ながら少し離れた場所、しかも高台に建っているので、確実に訪れたい。
修禅寺の門前を通る県道修善寺戸田線を、西へ向かって300mほど歩く。すると右手の小径入口に、「蒲冠者源頼家公墓道」と刻まれた石標が建っているのが目に入る。そこを辿ると道は急峻な坂道になり、グングンと高度を稼ぐ。100mほど登ると、小さな屋根の向こう側に範頼の墓があった。
そこは幽閉された後、攻められた際に自害した地とされ、かつては墓ではなく祠が建っていた。明治12年(1879)、そこから骨壷が発掘されたため、範頼が没した地という伝承が裏付けられたとし、昭和7年(1932)、日本画家の安田靫彦のデザインによる墓が新たに建てられたのである。
かつては範頼の墓のすぐ近くに、頼朝の側近中の側近であった安達盛長の墓もあった。だが道路工事により、現在は修善寺梅林への登り口に移されている。範頼の墓からさらに山を登ることになるが、こちらも訪れておきたいスポットと言えよう。
観光地の片隅、静かな山の一画に立つ悲劇の将軍の墓
記録が少ない範頼と違い、修善寺には頼家に関する伝承が多く残されている。それは妻子のことに思いを巡らせ月を眺めていたとか、地元の子らと遊びに興じたなど、何かと北条氏に都合よく書かれている『吾妻鏡』と違い、人間頼家の体温が伝わってきそうな話が多い。
だがそんな日々は1年も続かない。頼家は元久元年(1204)7月18日、満21歳という若さでこの世を去る。頼家はその日、入浴中に襲われ最期を遂げたと言われている。その時に入っていたのは、当時は桂川沿いにあったという筥湯だ。現在は独鈷の湯の近くに、同名の共同浴場があるので、宿泊を予定していない人でも修善寺の温泉が楽しめる。
そして地名の元となった修禅寺は、忘れずにお参りしたい。大同2年(807)、弘法大師空海によって開かれたと伝わる古刹で、修善寺温泉の中心に建っている。宝物館には頼家のものと伝わる、苦悶に満ちた面などゆかりの品々が展示されている。
桂川を挟んだ対岸には、北条政子が建立した経堂の「指月殿」があり、その並びに頼家の墓がある。指月殿は伊豆最古の木造建築物であり、納められている釈迦如来坐像は、ハスの花を持つ珍しいものだ。後に尼将軍と呼ばれた女丈夫の政子も、さすがに我が子の不遇な最期を不憫に思ったのであろう。
そして頼家の墓正面に立つ石碑は、元禄16年(1703)の頼家五百周忌にあたって立てられた供養塔である。その背後に隠れている2基の小さな五輪塔が、頼家の墓と伝えられているものだ。さらに隣接する公園の一画に、頼家に殉じたとされる13人の忠臣の墓が、静かに並んでいるのが印象的。
修善寺にはその他、弘法大師空海が拓いたという独鈷の湯、優雅な散策が楽しめる竹林の小径など、範頼・頼家ゆかりの地にプラスして訪れたいスポットにも事欠かない。すべてを回っても、徒歩3時間30分程度という手軽さもうれしい。
来る2022年8月15日(月)から17日(水)の3日間、静岡県三島市で『三嶋大祭り』が開催される。3年ぶりに行われる今年の目玉は、16日(火)の「頼朝公旗挙げ行列」だ。例年、著名人が頼朝公に扮し大勢の市民とともに、治承4年(1180)の旗揚げを再現してきた。
今年は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で頼朝公を演じた大泉洋さん、さらにその側近の安達盛長役の野添義弘さん、源範頼役の迫田孝也さん、仁田忠常役の高岸宏行さんが、それぞれドラマ内の役どころで参陣。行列は15時30分に三嶋大社を出発する予定だ。
取材・文・撮影=野田伊豆守