絶妙なバランスのカスタードクリーム
町パンを訪れたとき、あれば必ず買うのがクリームパンだ。パンにはいろいろなフィリングがあるが、カスタードクリームは買ったものではなく自家製を使っている場合が多く、個性が出やすい。こってりしていたりさっぱりめだったり、バニラが強めだったり卵の風味が前面に出ていたりと、いろいろな個性が楽しめるのだ。
『赤丸ベーカリー』のクリームパンはどうかというと、とんがった特徴はない。その代わりに恐ろしくバランスがいい。濃すぎず甘すぎず、バニラも卵も前に出すぎずの絶妙さ。かといって物足りないということはなく、カスタードクリームのおいしさにどっぷり浸れる。ある常連さんは「食べ終わると、クリームパンを食べたことを忘れちゃう」と言っていたようだが、まさにそれ。毎日どころか、1度に2個、3個、食べられてしまう、そんなクリームパンなのだ。
このクリームパンが食べられる『赤丸ベーカリー』は、雑司が谷にある。この街は近くに池袋という繁華街がありながら、落ち着きがあって静かで、まるでエアポケットのよう。戦争の被害を受けなかったうえ開発の手が入っておらず、道は細く入り組んでいてウネウネしている。年季の入った商店がポツポツ残る商店街を歩いていると、まるで異世界に迷い込んだような感覚になってくる。
そんな雑司が谷で、『赤丸ベーカリー』は99年続いているのだが、実はそれには前史がある。創業者の赤丸市太郎さんは、雑司が谷に来る前に飯田橋で和菓子店をやっていたようなのだ。「ようなのだ」というのは、そのことを親族も長く知らなかったためで、明治28年に東京府から交付された、菓子仕入れ鑑札が見つかったために分かったのだそう。
大正時代に雑司ケ谷へ移転
その後、関東大震災の被害から逃れ、大正12年(1923)に現在の雑司が谷へ移転。生菓子店の「赤丸文化堂」として再出発した(このへんは判明済み)。生菓子に加え、パンを仕入れて売っていたが、戦後の1950年、2代目の文二郎さんがパン、洋菓子の製造販売を始める。
戦争被害を受けなかった雑司が谷は、町並みがそのまま残っていたため、都心で焼け出された住民の移住が多かった。今はほとんどなくなってしまったが、『赤丸ベーカリー』のある弦巻商店街は商店がズラッと並び、夕方には車を通行止めにするほど、人で賑わっていたそうだ。
そんな景気のいい時代に店を経営していたのが、3代目の岩男さん。1973年には現店舗の2階部分で喫茶店を始める。岩男さんはかなり活発な方だったようで、『赤丸ベーカリー』の仕事以外にも町会長を務めたり、ほかにもいろいろ仕事をしていたようだ。なんとプロレスの興行もやっていたというのだから、驚く。
さらに岩男さんは1985年ぐらいからパン以外に雑誌や日用品を売るようになり、店はコンビニエンスストア状態に。お客さんから「あれが欲しい」と言われるとすぐに仕入れて売っていたそうで、なんともバイタリティに溢れ、地域の人々に愛された人物だったのである。
変わらないために変えていく
時は過ぎ、店はコンビニからパンの専門店へ。尋智さんが公務員勤務を経て、4代目として店に入った。今では4代にわたって通ってくれるお客さんもいるようだ。かつてと比べて商店も減って静かになってしまった雑司が谷だが、今も変わらず町のパン屋さんとして、人々に愛されているのである。
こう書くと、まるで時の止まったような店を思い浮かべるかもしれないが、そんなことはない。長い歴史の中で、少しずつ変わってきたのだ。
たとえば冒頭に紹介したカスタードクリーム。これは尋智さんの代で改良している。具体的には卵を上質なものに変え、さらにさっぱりしていながらパンに合うものを目指し、材料の配合を微調整しながら作り上げたのだ。
さらに他のパンもいろいろと調整している。評判の老舗店を評して「ずっと変わらない味」という言い方があるが、これは正確ではない。味は変わらずとも、人間の舌、味覚は変わっていく。30年前においしかったパンが、今もおいしいとは限らないのだ。だから、尋智さんが意識するのは「ずっと変わらないおいしさ」だ。そのために日々、調整をする。
尋智さんいわく「こだわりはないけれど、手は抜かない」。小麦粉も酵母も目を引くようなものを使っているわけではないけれど、じっくり発酵させてひとつひとつ丁寧に作っている。だからこそ町の人たちに愛されるし、長く続いてきたのだ。
古びたイメージの強い雑司が谷だが、新しい動きもある。商店街に若い人たちがポツポツと店を出し始めているのだ。和雑貨と古本を扱う『旅猫雑貨店』、占いと古本の『ジャングルブックス』、町のコミュニティを目指すラーメン店『都電テーブル』。それぞれがつながっていて、新しい雑司が谷を目指している。
変わっていないようで、変わっている。こうして『赤丸ベーカリー』は、これからも続いていくのである。
取材・撮影・文=本橋隆司