名前の由来は?

「擬宝珠橋」の名前の由来は、欄干の親柱の先端に擬宝珠が付いていること。

元和7年(1621年)に池田光政(いけだみつまさ)が創建したと伝わり、のちに長さ約37メートルの橋に架け替わり、明治30年(1897年)ころまで使われました。

この橋は、城のお濠にかかる大手橋で、藩領各地への距離の基点にもなっていたそうです。

橋の上は儀礼の場としても活用され、端午の節句で若殿さまがお祭りを見学したり、夏には納涼の宴が催されていたと言われています。

擬宝珠は、現存するたった一つの擬宝珠を三次元レーザー測量し、立体図、鋳型を作成し、復元されました。材質も分析され、当時のものと同じ青銅の表面に酸化皮膜を形成させる煮黒目(にぐろめ)仕上げが採用されました。

なぜ、完全木造復元にしなかったのか

水面の下にのぞく、橋の根本部分。

2011年の発掘調査で、江戸時代以降に橋を支えた橋脚がいくつも見つかり、そのうち擬宝珠橋の橋脚は21本もありました。

発掘された橋脚遺構を保護するために、既存のコンクリート橋の基礎をそのまま利用し、水中には特殊なステンレス製の梁を、その上に木造の橋を復元する工法が採用されました。

橋脚遺構を守り、かつ、復元橋を長持ちさせるために、完全木造復元ではなく、現代の素材と木を組み合わせるやり方をとりました。

鳥取城は、戦国時代に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の兵糧攻めの舞台となった山城です。

現存している石垣、堀などの城跡は、江戸時代に池田氏が治めている時代のものです。
写真奥の久松山(きゅうしょうざん)山頂に本丸が建っていました。
お城自体は、明治時代に取り壊されています。

鳥取城跡では、現在、復元計画が進められています。
2006年度から30年かけて、51億2000万円をかけて、幕末期の姿へ木造で復元するという壮大すぎる計画です・・・!

現在までに、擬宝珠橋のほか、中ノ御門(橋の奥に見える門)の復元が完成しています。
今後も復元が進み、少しずつ姿を変える鳥取城跡に乞うご期待。

参考文献:よみがえった擬宝珠橋 復元計画について