予想外に気軽な銀座のイタリアン
コートが邪魔なくらいの春の陽気が夜になってもそこらじゅうに漂っていて、ちょっと歩くだけで汗ばむ。あるいは、お医者さんと銀座の店で待ちあわせなんてはじめてのことで、動揺していたからかもしれない。暑い……。
メニューに価格がなかったり、薄暗く白くて広い緊張感ある空間だったりしないだろうか。「銀座のイタリアン」に対するあまりに限定されたイメージをもわもわと浮かべつつ、雑居ビルの6階まであがると、予想外にほがらかな店先のようすで安堵した。
『GINZA TAPPO』は全10席ほどのこぢんまりとした店。暖色の灯り、メニューにはちゃんと値段があってほっとする。ほどよく雑多な装飾やお店の方の明るくからりとした接客が、イタリアの空気をそのまま持ってきたみたいだ。かつて旅行で入ったイタリア現地のトラットリアをおもいだす。
そしてなおえ先生が来ると、店がさらにワントーン明るくなる。彼女は「こんなに感じのいい人って実在するのだろうか?」と疑ってしまうような、気取らずかわいらしさのある人で、脳内にあった医師像がすぐに溶かされてしまった。店主の大野さんと交わされた軽めの挨拶に、長い付き合いがにじんでいる。
『GINZA TAPPO』には、5皿で3500円の前菜+パスタのコースがある。「えっ、お得ですね!」つい口からこぼれた。だって1皿700円って……と計算してしまったじぶんに呆れながらも、予想外の気軽さに驚くのだった。
「いつもそれを注文して、あとはとにかくワインをたくさん飲みます!」なおえ先生はえへへと笑う。こちらの勝手な予想(偏見)がこう軽々とくつがえされていくと、いっきに親しみを感じてしまいます!
「患者と向き合う」を妥協しなくていい場所を求め、開業へ
なおえ先生は2011年、銀座で婦人科形成の専門医院「なおえビューティークリニック」を開業した。婦人科形成とは、女性器にかんする悩みの解消をめざす科目。美容外科のひとつの診療科目として扱うことはあっても、それを専門にしている医院はあまりない。
「はじめは関西の総合病院で産婦人科医として働きました。産科を選んだのは、病気やけがを治すところに比べてハッピーな場面が多いから。おめでとうございます! が日々飛び交う現場ですからね。でも、産科医が少なくて当直の頻度も高く、ものすごく多忙だったんです。それに当時、病院はセクハラ・パワハラもひどい状況でした。そんななかで働いていると、目の前の患者さまに寄り添う余裕がどんどんなくなってしまって……」
そこで保険診療から自由診療の道へ移行する。それは医師としての安定コースからは外れる選択、さらには「金儲け」などと揶揄されることもあるという。それでもなおえ先生は、自分が患者と向き合える環境を求めて動いた。
「東京にきて、大手の美容外科で自由診療を学びました。そこでは二重まぶたやら脂肪吸引やら、手術をいろいろとやりましたよ。きれいになるとか、コンプレックスを解消する場所ですから、こちらもやはりハッピーに近い現場なんです。だけど、途中で病院の体制が変わって、私の考えと合わなくなってしまいました。カウンセリングはカウンセラーが行うことになり、カウンセラーは出来高制なのでなかには必要ない施術まで契約をとってくることもあって……医師として、違和感がありました」
患者と向き合えなければ意味がない。クリニックに訪れた女性たちの悩みにもっとしっかり寄り添いたい。そうして決意した、一等地・銀座、婦人科形成というニッチ分野専門医院の開業だった。
「女性器のお悩みにアプローチすることは、形や大きさなどの美的コンプレックスや機能面での問題を解消して充実した生活を送ることだけでなく、妊娠や出産の前段階をお手伝いすることにもつながっているんです。どうしても痛くてパートナーと性交ができなかった女性の手術をして、その後、子どもが生まれました! と写真つきのメッセージをいただいたりすることがあって……。そういうとき、本当によかったね、とスタッフの子たちとみんなで喜んでいます」
患者さまに向き合って、とか、悩みに寄り添う、とかはいわばクリニックの常套句である。そう謳っていても「すごく向き合ってくれたなあ」なんて実感できる医院は、いったいどれほどあるだろう。もちろんどのクリニックだってできればそうしたいはずだけれど、なおえ先生はそのためにみずからリスクをとって環境を変え、自分も患者も心地よくいられる場所を、本気で作りにいっている。その妥協のなさにあてられ、私はうれしくてちょっと泣きそうになるのだった。
妥協のなさは、趣味のワインにも
さて、皿が入れ替わるたびになおえ先生のワイングラスも替わっていく。まさに水のようにワインを飲む人だ。ずっとにこにこと話をしてくれて、酒が進んでも変わらず感じのよい彼女が、なんだかどんどん女神さまのように見えてきた。女神はワインが相当すきらしい。
自宅でも毎晩ひとりでワインを一本空けてしまうなおえ先生。すきすぎてワイン教室に通い学んだりもしたという。
「ワインの他にダイビングもすきで、ずっと前に免許をとってからつづけています。ひとりでダイビング旅行をよくするんですけど、現地でいろんなかたと仲良くなってお酒を飲むこともあるので、前もって旅行先にすきなワインを何本か送っておいたりしますね」
取材のあいだ、何度「ええ!?」と言っただろう。ワインをとってもダイビングをとっても、やると決めたことにはとにかく妥協がない。聞けば聞くほどに、さきほどの医師としての徹底ぶりは仕事だからというだけでなく、なおえ先生の気立てなのであった。
しかも本人にはストイックの自覚がなく、その妥協のなさを人に求めたりもしない。ああ、静かにやわらかな光を放つ女神みたいな人が、世の女性たちを支えるお医者さんでいてくれる。なんてありがたいことだろう……。
ワインのために生まれたような絶品料理たち
なおえ先生が『GINZA TAPPO』にはじめて訪れたのは、クリニックを開業するより前。ワイン好きな彼女に、ワインに合うおいしい料理を出すこの店がぴったりとハマり、もう12年ほど通いつづけている。
「ふだんはほとんど自分で料理をしないんですけど……この店のお料理がおいしすぎて、店主の大野さんに昔チキングリルの作り方を教えてもらったことがあるんです! それくらいだいすきですね」
たしかにこの料理たち、ワインを飲むために生まれたのかな? と思わされるくらいにごくごく進む。私も料理にのせられて気づけばたくさん飲んでしまった。
心地よさをめざして環境を変えてゆく人がずっと愛しつづける店。実際に食事を終えたいま、私にもここが心地よい場所であることがわかる。銀座のイタリアンが行きつけなんてと尻込みしていたさっきまでの自分に、ここなら大丈夫! と教えてあげたい。
エレベーターを降りると店に入る前の暑さはしずまり、冬に後ずさりしたような気温になっていた。冷えた空気にワインの余韻が心地よい。しかし一歩出ると急激に夜の銀座で、目が覚める。
私のようすを見て、なおえ先生は「私はこのあともう一軒寄り道して帰りますけど、いかがですか?」とほほえんだ。そして「もちろん、ご無理はなさらず」としっかり気遣ってくださるのだった。
女神は今日の飲みっぷりにもいっさいの妥協がない。よろこんでご一緒します。
取材・文・撮影=サトーカンナ