壁に並ぶただものではないお品書き

たくさんの飲食店でにぎわう新宿3丁目の一角に、昔ながらの風情を残す木造建築の寄席・新宿末廣亭がある。末廣亭から路地をぐるりと回り、ちょうど真裏の辺りにあるのが『喫茶 楽屋』。

『喫茶 楽屋』の入り口。初めての方は少し入りにくさを感じてしまうかもしれない。
『喫茶 楽屋』の入り口。初めての方は少し入りにくさを感じてしまうかもしれない。

扉を開け、壁に寄席やショーなどのポスターがびっしり貼られた階段を上っていくと現れるのは、懐かしさを感じる風景。階段を上がりきった目の前には小さなカウンター、フロアには緑のソファーと白いテーブル。壁に掛けられた短冊のお品書きや障子、神棚や寄席文字で書かれた額などのおかげで、まるで時が止まったような空間ができあがっている。

階段には寄席やショーのポスターがびっしり。
階段には寄席やショーのポスターがびっしり。
店内は時が止まったような空間。
店内は時が止まったような空間。

「何にします?」とあいさつも早々に注文を聞いてくる店主の石川敬子さん。「人気の寄席餅と、アイスコーヒーもお願いします」との注文に「はい。あのね、みなさん最近寄席餅を注文してくれるんだけど、特にそれまで人気があったというわけではなくて、誰かが紹介してくれたのがきっかけで一人歩きしてしまったものなんだよね」とまだこちらはメモ帳も出していないのに、早くもお話がスタート。そのお話のスピード感にたちまち巻き込まれてしまう。

新宿末廣亭の初代席亭を祖父に、落語界の大立者5 代目柳亭左楽を曾祖父の持つ『楽屋』の3代目店主・石川敬子さん。落語家さんからは「敬ちゃん」「お嬢」と呼ばれる。
新宿末廣亭の初代席亭を祖父に、落語界の大立者5 代目柳亭左楽を曾祖父の持つ『楽屋』の3代目店主・石川敬子さん。落語家さんからは「敬ちゃん」「お嬢」と呼ばれる。

お話によると、壁に並ぶ短冊のお品書きもただものではない。珈琲を筆頭に、赤白青の三色の短冊と白い短冊。これは寄席文字の大家、というより寄席文字を作り出した名人・橘右近師匠と一番弟子の橘左近師匠の手によるものであるというから驚きだ。左近師匠は、あの笑点の文字でも有名な方。三色短冊が右近師匠、白短冊が左近師匠の文字であるとのこと。

橘右近、左近師匠による寄席文字のお品書き。
橘右近、左近師匠による寄席文字のお品書き。

新宿末廣亭の初代席亭が娘のために作ったお店

『喫茶 楽屋』が開店したのは1958年のこと。敬子さんは3代目の店主。「もともとは私の祖父の北村銀太郎が、一人娘の箱入りであった私のママのために、末廣亭の楽屋だった場所に作ったのがこのお店」と敬子さん。

……となると敬子さんは2代目??「ママが『私が初代だと年がばれちゃうからおばあちゃんが初代、私は2代目ということにしておいて!』って(笑)」という実にチャーミングなお達しにより、敬子さんが“3代目”ということになっているんだそう。

北村銀太郎氏は新宿末廣亭の初代席亭。さらに敬子さんの曾祖父は落語界の大立者であった5代目柳亭左楽という凄いお血筋。お店を訪れる落語家の皆さんからは「敬ちゃん」「お嬢」と呼ばれ親しまれている。

落語家さんたちがちょっと小腹を満たすメニューもそろっている。
落語家さんたちがちょっと小腹を満たすメニューもそろっている。

『楽屋』の店名は、この場所が実際に楽屋として使われていたことから。店を開くにあたって「いいじゃねぇか、楽屋だったんだから楽屋で」という大工さんの言葉に従ったんだとか。

そんなお話をしているうちに、注文した寄席餅700円が到着。お店のメニューにはこのほかに、いそべもち、甘辛もち(各3個)があるが、これを好きな方を2個にして組み合わせ、いそべもちも甘辛もちも楽しめるようにしたのが、この寄席餅。メニュー名は2種類のお餅を「寄せた」のとお隣の「寄席」をかけた、洒落のネーミングだ。

寄席餅には昆布茶が付いてくる。
寄席餅には昆布茶が付いてくる。

お餅はしっかりと15分ほどかけて焼いたもの。まずはいそべもちを一口。焼いた餅の香ばしさ、餅独特の歯ごたえのうれしさ。そして、お醤油がすごくおいしい。敬子さんに聞くと、使っている醤油はヒゲタしょうゆの“本膳”。高級料亭でも使われている伝統ある醤油だ。甘辛もちは、お醤油と砂糖の味付け。しっかりと甘く、これがまた懐かしおいしくて、後を引く味。

これをきっかけにちょっと店のこだわりの部分に話を向けてみると、あまりにもさりげなく、そして随所にこだわりが反映されている。例えばおしぼりは全て今治産。自分で洗い、たたんで提供している。男だけの楽しみながら「顔を拭いても気持ちよい」とのこと。

今治産のおしぼり。2年ごとにすべて交換するとのこと。
今治産のおしぼり。2年ごとにすべて交換するとのこと。

アイスコーヒーのカップも、全て特注。浅草の銅銀屋さんに発注し、1つずつ手打ちで作られたもの。そして氷は氷屋さんから届けられた氷をカチワリで使っている。「溶けにくいので、珈琲が最後までおいしく飲める」と敬子さん。

そういわれてアイスコーヒー550円をいただくと、その濃くて深い味わいはもちろんだが、カップの重さにも驚かされる。まるで高級なウイスキーグラスのように、その重さが味を何段階もおいしく感じさせてくれるようだ。

カップは職人さんが1つずつ手打ちで製作。溶けにくいカチワリ氷を使用。
カップは職人さんが1つずつ手打ちで製作。溶けにくいカチワリ氷を使用。

こだわりについて敬子さんは「自慢になってしまうし、こっちから言うものではなくて、気づいてくれる人がいればいい」と言うものの、こちらからの質問にはポンポンと気持ちよく答えてくれ、その話の奥深さ、面白さ、そしてテンポの良さにどんどん引き込まれていく。

多くの落語家さんが一息つく店

高座の前後には必ずここで過ごす落語家さんも多いという。敬子さんは、寄席の番組表を見れば、今日はこの人が来そうだ、ということもだいたいわかるとのこと。ただ、よくお店の紹介などに「落語家さんに会える店」と書いてあるけど、それほどではと敬子さんは話す。

「寄席を終えて次の仕事までの時間、一息つきに来る方が多いので、皆さん長居はしません。いても30~40分。うまくタイミングが合えば会えますけど」と敬子さん。

このカウンターからお餅や蕎麦が提供されるおもしろさ。
このカウンターからお餅や蕎麦が提供されるおもしろさ。

と、そんな言葉がまだ残っているタイミングで、トントンと階段を上がってくる足音。上がってきた男性は敬子さんにあいさつをしながら包装紙に包まれた菓子折りのような包みを渡す。

「今取材中なの」と敬子さんは男性に気軽に筆者を紹介してくれる。そして筆者に「こちらは9代目文楽さん」と訪れた男性を紹介してくれる。

……9代目桂文楽!! 落語界の超ビックネームだ。「ペヤングソース焼きそば」のCMに長きにわたってご出演されたことでも有名な、あの四角いお顔の大師匠ではないか。その本物があまりにも突然、そしてあまりにもさりげなく目の前にいて、温厚そうなまなざしで「あ、そう。こんにちは」とあいさつをしてくれる。

直立不動。全身に鳥肌。本物だ。ちゃんと会えるではありませんか! 敬子さんによると、先代の8代目文楽が5代目柳亭左楽のお弟子さんだった縁で、名を引き継いだ9代目も毎年こうしてお中元を届けてくれるとのこと。

『楽屋』のレジ。500円硬貨がなかった時代から使用。「うちは現金オンリー」と敬子さん。
『楽屋』のレジ。500円硬貨がなかった時代から使用。「うちは現金オンリー」と敬子さん。

新宿三丁目『喫茶 楽屋』。まさに名店。歴史、文化、人、全てが交差する場所。その中心にあって自然体で接客をされる敬子さんの姿。そのさりげなく奥深いこだわり。その素晴らしさと厚み、そして面白みや凄味さえ同時に感じさせてくれる場所だった。

住所:東京都新宿区新宿3-6-4 2F/営業時間:10:00~20:00/定休日:不定/アクセス:地下鉄新宿三丁目駅から徒歩2分

構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=夏井誠