江戸時代以前に造られた天守

われわれが「城」と聞いて真っ先に思い浮かべる高層の天守は、織田信長が築いた安土城(天正4年〈1576〉築城・現存せず)にはじまるとされ、江戸時代初期までの間に、全国に天守を備えた城郭が数多く造られた。

現在、江戸時代以前に造られた天守(現存天守)は全国に12基残っており、このうち5基は国宝に指定されている。

駅を降りると正面に見える姫路城(兵庫県姫路市)。築城当時の姿をとどめる国宝の現存天守である。
駅を降りると正面に見える姫路城(兵庫県姫路市)。築城当時の姿をとどめる国宝の現存天守である。
井伊直継により慶長8(1603)年に築城された彦根城(滋賀県彦根市)。こちらも国宝。
井伊直継により慶長8(1603)年に築城された彦根城(滋賀県彦根市)。こちらも国宝。
こちらも数少ない国宝天守のひとつ、犬山城(愛知県犬山市)。
こちらも数少ない国宝天守のひとつ、犬山城(愛知県犬山市)。

逆に言えば、そのほかの天守は後の時代に再建されたものということになる。

一国一城令、廃城令、第二次世界大戦……失われた天守

天守が失われてしまった理由はいくつかある。まず元和元年(1615)に江戸幕府により発布された「一国一城令」。諸大名に対して、居城以外の全ての城を破却するよう命じたもので、数日のうちに約400の城が壊されたという。

吉川広家により慶長6年(1601)に築城され、一国一城令により取り壊された岩国城(山口県岩国市)。現在の天守は1962年に外観復元されたが、当時の天守台とは異なる位置に築かれている。
吉川広家により慶長6年(1601)に築城され、一国一城令により取り壊された岩国城(山口県岩国市)。現在の天守は1962年に外観復元されたが、当時の天守台とは異なる位置に築かれている。

明治時代に入ると「廃城令」(明治6年《1873》)が出され、廃城処分となった城郭は建造物が取り壊されたり、土地が売却されたりした。存城処分となった場合も、陸軍の兵営地として建造物が取り壊しになることが多かった。

会津若松城(福島県会津若松市)は、陸軍の兵営地とされて建造物はすべて破却された。現在の天守は1965年に外観復元されたもの。
会津若松城(福島県会津若松市)は、陸軍の兵営地とされて建造物はすべて破却された。現在の天守は1965年に外観復元されたもの。

さらに昭和になると、旧国宝であった名古屋城や大垣城などが空襲により焼失してしまったのである。

空襲により焼失した名古屋城(愛知県名古屋市)。1959年に外観復元された現在の天守は、コンクリート老朽化のため現在閉鎖されている。
空襲により焼失した名古屋城(愛知県名古屋市)。1959年に外観復元された現在の天守は、コンクリート老朽化のため現在閉鎖されている。
美濃大垣藩初代藩主の戸田氏鉄の騎馬像と大垣城(岐阜県大垣市)。空襲で焼失後、1959年に外観復元された。
美濃大垣藩初代藩主の戸田氏鉄の騎馬像と大垣城(岐阜県大垣市)。空襲で焼失後、1959年に外観復元された。

戦後、失われた天守を再建しようという動きが起こる。特に原爆により倒壊した広島城の復元(1958年)は全国に希望をもたらすもので、「わが街にも天守を」という動きにつながったのではないだろうか。

原爆で倒壊後、1958年に外観復元された広島城(広島県広島市)。下見板張の壁など忠実に復元されているが、劣化が進み、木造復元も含めて検討されている。
原爆で倒壊後、1958年に外観復元された広島城(広島県広島市)。下見板張の壁など忠実に復元されているが、劣化が進み、木造復元も含めて検討されている。

コンクリート天守には地域の人々の熱意が凝縮されている

昭和30~40年代に復元された天守の多くは、「外観復元天守」と呼ばれる、築城当時の外観を再現した鉄筋コンクリート造のものだ。

福山城(広島県福山市)の天守(右奥)。天守は空襲で焼失後、1966年に復元されたが、焼失前と異なる部分もあり、2022年に大改修が行われた(写真は改修前)。
福山城(広島県福山市)の天守(右奥)。天守は空襲で焼失後、1966年に復元されたが、焼失前と異なる部分もあり、2022年に大改修が行われた(写真は改修前)。

中には資料などが残っておらず、当時の外観とは別の形で造られた「復興天守」もある。

廃城令で取り壊された岡崎城(愛知県岡崎市)は1959年に外観復元されたが、築城時とは異なる部分もあり、復興天守に分類される場合もある。
廃城令で取り壊された岡崎城(愛知県岡崎市)は1959年に外観復元されたが、築城時とは異なる部分もあり、復興天守に分類される場合もある。
明治3年(1870)に廃城が命じられ、天守が取り壊された小田原城(神奈川県小田原市)。模型や絵図を参考にして、1960年に復興された。
明治3年(1870)に廃城が命じられ、天守が取り壊された小田原城(神奈川県小田原市)。模型や絵図を参考にして、1960年に復興された。

こうしたコンクリート天守は、内部が資料館となっているものも多く、観光客にも人気である。一方で現存天守に比べると、コンクリート天守は低く見られる傾向にある。現在のコンクリート天守を取り壊し、築城当時の木造建築で再建しようという計画が進められている名古屋城などは、その一例だろう。

しかし私は、この「昭和30~40年代に建築されたコンクリート天守」が好きでたまらない。「戦後復興のシンボルとして、わが街に天守が欲しい」という、地域の人々の熱意が凝縮されている気がするからだ。

“城への愛”を感じる

明治維新後に荒廃し、城郭が壊されてしまった浜松城では、1958年に天守が築かれた。

浜松城(静岡県浜松市)の天守は江戸初期に失われており、資料が残っていない中で造られた。
浜松城(静岡県浜松市)の天守は江戸初期に失われており、資料が残っていない中で造られた。

築城当時の資料が残っておらず、さらには予算不足のため天守台の3分の2の面積に築かれた天守であるが、総工費約1400万円のうち約900万円は市民からの寄付でまかなわれたという。この天守は、市民たちの熱意の結晶なのだ。

浜松城内部の資料館。市民たちが切実に天守を希望していたことがわかる。
浜松城内部の資料館。市民たちが切実に天守を希望していたことがわかる。

天守に対する思いが強まると、「もともと城ではなかったところに天守を築く」という動きに発展する。1959年に建築された熱海城などはそのいい例である。

観光施設として建設された熱海城(静岡県熱海市)。「もしかして実際にここにお城があったのでは……?」と思わされる。
観光施設として建設された熱海城(静岡県熱海市)。「もしかして実際にここにお城があったのでは……?」と思わされる。

石田三成が居城としていたことでも知られる佐和山城(滋賀県彦根市)は、彦根城の築城後は破城され、当時の面影を残すものはほとんど残らなかった。ところが地元の実業家が石田三成の無念を晴らすべく、「佐和山城」を個人の力で建設した。そこにあるのはただただ「城への愛」ではないだろうか。

2024年12月中旬に訪れた、佐和山遊園内に造られた天守。五重塔や金閣寺のような建物もあり、テーマパークのような場所であったが、未完成のまま現在は立ち入ることができなくなっている。
2024年12月中旬に訪れた、佐和山遊園内に造られた天守。五重塔や金閣寺のような建物もあり、テーマパークのような場所であったが、未完成のまま現在は立ち入ることができなくなっている。

先に挙げた名古屋城もそうだが、昭和30~40年代に建築されたコンクリート天守は、現在老朽化が進んでいる。しかしこの「城への愛」を感じられる天守を、できる限り残してほしいと思うのであった。

イラスト・文・写真=オギリマサホ
参考文献:中井均『新編 日本の城』(山川出版社・2021)、西ヶ谷恭弘監修『日本の城年表』(朝日新聞出版・2024)

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