江戸時代以前に造られた天守
われわれが「城」と聞いて真っ先に思い浮かべる高層の天守は、織田信長が築いた安土城(天正4年〈1576〉築城・現存せず)にはじまるとされ、江戸時代初期までの間に、全国に天守を備えた城郭が数多く造られた。
現在、江戸時代以前に造られた天守(現存天守)は全国に12基残っており、このうち5基は国宝に指定されている。
逆に言えば、そのほかの天守は後の時代に再建されたものということになる。
一国一城令、廃城令、第二次世界大戦……失われた天守
天守が失われてしまった理由はいくつかある。まず元和元年(1615)に江戸幕府により発布された「一国一城令」。諸大名に対して、居城以外の全ての城を破却するよう命じたもので、数日のうちに約400の城が壊されたという。
明治時代に入ると「廃城令」(明治6年《1873》)が出され、廃城処分となった城郭は建造物が取り壊されたり、土地が売却されたりした。存城処分となった場合も、陸軍の兵営地として建造物が取り壊しになることが多かった。
さらに昭和になると、旧国宝であった名古屋城や大垣城などが空襲により焼失してしまったのである。
戦後、失われた天守を再建しようという動きが起こる。特に原爆により倒壊した広島城の復元(1958年)は全国に希望をもたらすもので、「わが街にも天守を」という動きにつながったのではないだろうか。
コンクリート天守には地域の人々の熱意が凝縮されている
昭和30~40年代に復元された天守の多くは、「外観復元天守」と呼ばれる、築城当時の外観を再現した鉄筋コンクリート造のものだ。
中には資料などが残っておらず、当時の外観とは別の形で造られた「復興天守」もある。
こうしたコンクリート天守は、内部が資料館となっているものも多く、観光客にも人気である。一方で現存天守に比べると、コンクリート天守は低く見られる傾向にある。現在のコンクリート天守を取り壊し、築城当時の木造建築で再建しようという計画が進められている名古屋城などは、その一例だろう。
しかし私は、この「昭和30~40年代に建築されたコンクリート天守」が好きでたまらない。「戦後復興のシンボルとして、わが街に天守が欲しい」という、地域の人々の熱意が凝縮されている気がするからだ。
“城への愛”を感じる
明治維新後に荒廃し、城郭が壊されてしまった浜松城では、1958年に天守が築かれた。
築城当時の資料が残っておらず、さらには予算不足のため天守台の3分の2の面積に築かれた天守であるが、総工費約1400万円のうち約900万円は市民からの寄付でまかなわれたという。この天守は、市民たちの熱意の結晶なのだ。
天守に対する思いが強まると、「もともと城ではなかったところに天守を築く」という動きに発展する。1959年に建築された熱海城などはそのいい例である。
石田三成が居城としていたことでも知られる佐和山城(滋賀県彦根市)は、彦根城の築城後は破城され、当時の面影を残すものはほとんど残らなかった。ところが地元の実業家が石田三成の無念を晴らすべく、「佐和山城」を個人の力で建設した。そこにあるのはただただ「城への愛」ではないだろうか。
先に挙げた名古屋城もそうだが、昭和30~40年代に建築されたコンクリート天守は、現在老朽化が進んでいる。しかしこの「城への愛」を感じられる天守を、できる限り残してほしいと思うのであった。
イラスト・文・写真=オギリマサホ
参考文献:中井均『新編 日本の城』(山川出版社・2021)、西ヶ谷恭弘監修『日本の城年表』(朝日新聞出版・2024)