大宰府で和歌を詠んでいた歌人たち
さてそんな大宰府が日本文学のなかで脚光を浴びていた時代がある。『万葉集』に和歌がおさめられた時代だ。
『万葉集』とは、『源氏物語』よりもさらに昔、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた歌集である。全20巻あり、なんと4516首もの和歌が収録されている。詠み手が幅広いことも特徴。天皇が詠んだ歌もあれば、防人歌(さきもりのうた)といって地方に赴任した民衆が詠んだ歌もあり、庶民から貴族にいたるまでさまざまな人の歌によって編纂されている。
さてそんな『万葉集』において、実は大宰府をはじめとして九州の筑紫(つくし)で詠まれた歌が、実は多数収録されている。特に中心となったのは、大伴旅人(おおとものたびと)。彼は大宰府に60歳を過ぎてから赴任し、大宰帥(だざいのそち)となっている。そんな彼は大宰府において、山上憶良(やまのうえのおくら)や坂上郎女(さかのうえのいらつめ)や沙弥満誓(さみのまんせい)や小野老(おののおゆ)らと交流を深め歌を詠み合った。
——このような旅人を中心とする大宰府の歌人たちを「筑紫歌壇」と呼ぶこともある。それくらい、720年代の大宰府では、和歌が盛り上がったのだ。
大伴旅人の酒の歌
ちなみに大伴旅人は酒の歌をよく詠んでいる。『万葉集』には「大宰帥大伴卿の酒を讃(ほ)むる歌十三首」なんて歌群もあるのだ! 大伴旅人がただひたすらに酒を褒めた十三首。楽しそうだ。一首だけご紹介しよう(以下、訳は筆者意訳)。
〈原文〉
験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし(巻3・338)
〈訳〉
どうにもならないことを考えるより、濁り酒を飲んだほうが良いよね
そうだよね、とうなずいてしまう方もいるのでは。案外奈良時代の人も、現代人と感覚は近いかも、なんて思わせてくれる歌である。実はこの歌、旅人が妻を亡くしたときに詠んだ歌だというので、気を紛らわせようとしているのだろうが……。
元号「令和」の元ネタ
さてそんな大宰府で活躍した筑紫歌壇の和歌。それは、実は「令和」の元号の元ネタでもあるのだ。
「令和」は、『万葉集』梅花歌三十二首の題詞「初春令月 氣淑風和」が出典。この「梅花歌三十二首」というのがまさに、筑紫歌壇の歌人たちが梅を見ながら詠んだ歌、という意味なのである。
ちなみに「題詞」とは、和歌の前に付される「この歌を詠んだ状況を解説します」という、いわばあらすじ説明である。この題詞には、こう記されている。
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。
書き下し文:天平二年の正月十三日に、帥老の宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和(やはら)ぐ
この「令」と「和」を用いて元号は選定された。が、題詞をよく読んでみてほしい。日付が「正月十三日」。旧暦「正月十三日(天平二年)」とは、太陽暦では「2月4日(西暦730年)」のこと。……大宰府で梅を見ながら酒を飲んで歌を詠む宴会にしては、早すぎない? まだ、寒いのでは?
それもそのはず、彼らが詠んだ歌は決して実物の梅を見ながら詠んだ歌ではない。ただ宴会をして、想像上の梅を詠んでいる。そのため「雪降る日の梅」が詠まれる歌も、「梅が散る日」が詠まれる歌もある。
都から遠く離れた地で暮らした人たち
おそらく彼らは、妻を亡くした大伴旅人を慰めるために宴会を開いたのであろう、と言われている。梅が咲いたかのように、歌を詠む。みんなで慰め合いながら、都から遠く離れた土地で、酒を飲み、歌を詠み合う。そうしているうちに赴任先での孤独が和らぐ、と思っていたのかもしれない。
〈原文〉
年のはに春の来らばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ(巻5・833 大令史野氏宿奈麻呂〈だいりょうしやじのすくなまろ〉)
〈訳〉
毎年春が巡ってきたら、このように梅を髪に挿して、またみんなで楽しく飲みましょうね
たしかに大宰府は、都から遠かった。家族から離れて暮らす人もいた。しかしそんな寂しさを和歌で慰め合っていた人々がいた。
千年以上前から、そういうことをしている人々がいたのだ、ということに、現代の私も励まされる気がする。大宰府に行った際は、『光る君へ』の名シーンに思いをはせるとともに、ぜひ旅人たちの宴にも思いをはせてみてほしい。旅人たちふうに、お酒を飲みながら大宰府を思い浮かべるのもまた、いいかもしれない。
文=三宅香帆 写真=PhotoAC、さんたつ編集部
※原文は岩波文庫版『万葉集』より引用