心機一転、上京して叶えた喫茶店開業の夢
神保町の静かな路地の一角。エレベーターで地下1階に降りると、隠れ家のような空間が現れる。いくつも下がったランプの暖かい光に照らされるのは、ゆったりと配置された椅子やテーブル、壁に並ぶ絵画。棚にはたくさんのレコード、そして大きな蓄音機も置いてある。
この店の店主・久保田克敏さんがレコードを買い集めるようになったのは、中学生の頃。以前からクラシック音楽が好きで、音楽家になりたいと思っていたこともあったというが、それ以上に「自分がいいと思っているものを紹介したい、シェアしたい」という思いが強かった。コーヒーも本も好きで、地元・静岡から東京へレコードを買いに来ることもあったという久保田さんが「いつか神保町で喫茶店をやりたい」と思うのはもはや必然だったのかもしれない。中学生の時にはすでに、ぼんやりとそんな夢を持っていたとか。
その夢を叶える機会がやってきたのが数年前。1926年製の蓄音機「クレデンザ」を購入し、コロナ禍で塞ぎ込んでいた知人にレコードの音を聴かせた。その際の「自分の悩みがちっぽけに思える。今日この音を聴けてよかった」という知人の言葉を聞いてはっとしたという。
「喫茶店はセカンドライフとして漠然と思い描いていたものでしたが、もしかするとライフではなくキャリアなのではないか、と思ったんです」
東京に出て、これまでの知見を生かした仕事をしたいと考えていたところでもあったという久保田さん。いくつかのきっかけが重なり、長く勤めていた静岡のラジオ局を退職して心機一転ゼロから新しく始めることを決意。そうして2022年にオープンしたのが『かふぇ あたらくしあ』だ。
「父が亡くなった年齢に自分も差し掛かっていて、父が見なかった景色を見ていかなければと考えていたのもありますね。新しい目標を掲げて、チャレンジしていかなければ、と」
店名の「あたらくしあ」とは、ギリシャ語で「外界にわずらわされない平静不動なる心の状態」のこと。古代ギリシャの哲学者・エピクロスは、幸福とは「アタラクシア」だと唱えた。大学でギリシア哲学を専攻していた久保田さんならではの、そしてこの空間にぴったりの名前だ。
SPレコードを蓄音機で聴くということ
「同じ曲でも指揮者や演奏者によって違うクラシックの魅力は本当に奥深くて、底なし沼です」と話す久保田さんが集めた音盤は、SP、LP、CDを合わせると約1万枚。なかでも、蓄音機でSPレコードが聴けるというのは大きな魅力だ。
SPレコードは主に1900~40年代に製造されたもので、1948年に登場した33rpmのLP(LONG PLAY)に対してSP(STANDARD PLAY)と呼ばれた78rpmのレコード。近年はアナログブームで新譜のLPやEPが発売されることも多いが、SPは60年以上前に生産終了している。単にアナログの音としての魅力があるだけでなく、当時の音楽そのものが刻まれているのがSPというわけだ。
「SPレコードの全盛時代は、社会として不安定な時代と重なります。その不穏な空気のなかでも、音楽はいい演奏が生まれたり、いい奏者が出たりしていた。そのことがとても興味深いと思うんです」
電気を使わずに音を増幅させる蓄音機から流れる音楽は、耳で聴くというよりも体で感じ取るようで心地よい。音とは振動なのだということを改めて実感する。
蓄音機でSPレコードが聴ける、というと名曲喫茶だと思う人も多いようだが、あくまで喫茶店。おしゃべりしても大丈夫だが、音楽を目的に来店する人のために、時間帯によって音量や曲を調整しているという。「開店直後や18時以降の時間帯なら、ゆっくり音楽を聴いていただけると思います」と久保田さん。手持ちのレコードをかけてもらうことも可能で、自宅に眠っていたものや近くの『富士レコード社』で買ったものを持ってくるお客さんも多いという。
コーヒーと音楽を愛する人々が集い、語り合える場へ
コーヒーはシングルオリジンのものを10種ほどそろえているほか、希少品種のゲイシャコーヒーも扱う。よりコーヒーそのものの味わいや香りが残るよう金属フィルターで淹れているのも特徴だ。この日は、ケニア カリンガをいただいた。「酸味のあるコーヒーが苦手だというお客さんにあえておすすめすることが多いんですよ」と久保田さん。爽やかで甘みのある果実のような味わいながら、いわゆる「酸っぱい」感じは全くなく、濃厚チョコレートケーキのしっとりとした食感ともよく合う。
ちなみにケーキにあしらわれているのはこの店のロゴ。蓄音機にあるサウンドボックスという針先からホーンへと振動を伝える部分の形を模したマークだ。
「場」に「集う」ことで生まれるコミュニケーションも大切にしているという久保田さん。10人座れるテーブルも用意し、レコードを聴く会などのイベントも開催している。
「SPレコードがつくられていた当時は録音という行為も技術も貴重で、レコード1枚の重みが現代とは全く違います。その丁寧につくられたオリジナルの音を、オリジナルの機械で聴くということが大切だと思うんです。それを楽しむために“集う場”にしていきたい」
「アタラクシア」を求めて、コーヒーをお供に音楽を楽しみたい人々が今日もここに集まってくる。
『かふぇ あたらくしあ』店舗詳細
取材・文・撮影=中村こより