しっかりカップ1杯分試飲できる豆屋
桃の節句もすぎたのに肌寒くて春と呼んでいいのか迷わせる3月。雨が降ったり止んだりしていた。下高井戸駅で降り、左右に立ち並ぶ店々に目を奪われつつ長いながい商店街をゆくとコーヒー豆の店『南蛮屋 樹』がある。
開店時間を待っていると岩本さんが「どうもどうも〜」と登場。いつもやわらかな人だ。店主の小川さんもやってくるなりジョークを飛ばし、初対面の私がこわばる余地のない空気をつくってくれた。
豆の販売店でイートインはないはずなのに『南蛮屋 樹』にはテーブルといすが用意されている。ここでは好みの豆を選んでハンドドリップでしっかりカップ1杯、コーヒーを淹れてくれるという。それがなんと試飲らしい。自分のなかにある試飲の概念が試される。
どうしよう。とりあえず岩本さんのお気に入り豆はどれですか?
「私がいつも買ってるのは、トータルバランスがいいグァテマラ。前は個性が強いトラジャだったけど……」と言う岩本さんに「実里くんはたばこ吸うから、そのときはガツンとくる豆が合う。でも毎日何杯も飲むから最近は飲みやすい豆だよね」と小川さんがつけ足した。
わー、コーヒー豆をすすめるってこんなに人の生活に近い行為なのか。たしかに私も毎日かならず1杯は飲むもんな。
「試飲は自分の好みとかその日の気分でおまかせして淹れてもらってて。飲んだことない豆とか、季節限定のをここで試しておいしいなと思って買うこともあります。今日はどうしよう」
相談のうえ決めたのは「エチオピア イルガチェフェ」という豆だ。コクがありながらすっきりした味、と小川さん。店主の軽快な話しぶりと丁寧に淹れてもらえるコーヒーで喫茶店かな? と錯覚しそうになりますが、あくまで豆の販売店です。
『南蛮屋』は、厚木にある焙煎工場からコーヒー豆を入荷・販売する店。いくつか店舗があるが、そのうち下高井戸店と調布店は南蛮屋株式会社の直営店ではなく、小川さんが社長として経営している。
音楽家や作品が、それらしくあるために
コーヒーが入りました。う、うまい~~~っ! いつも牛乳を入れてカフェラテにしてしまう私もブラックですいすい飲めるすっきり感、でもしっかり旨味がある。このコーヒーを片手に、岩本さんの仕事や暮らしについて話してもらった。
岩本さんはグラフィックデザイナーとして、さまざまなバンド・音楽家のジャケットやグッズなどを手がけている(過去作品は岩本さんのInstagramを参照)。ドーンと派手でないが目を引く、削ぎ落としのうまいものづくりが彼のセンスだ。
彼のやわらかな人柄とシンプルなデザインに照らされてきらきらとかがやく音楽家たちを、私はこれまでにたくさん見てきた。
岩本さんが削ぎ落とされたデザインに至ったのは、なぜなのでしょうか。
「デザインを学ぶために専門学校に通っていたんです。そのなかで、伝えるために表現や情報が美しく整理されることで、少ない情報量でもこんなに伝わるのか! っていうのがおもしろくて。ピクトグラムのように端的に伝えるために記号化されたものに魅力を感じてました。似顔絵もよく描くんですけど、似顔絵って著名や無名問わずその人といえばこれ、という見た人と共通認識できる点を捉えると、極端な話シルエットだけでも伝えられる。この人をこの人たらしめるものは何か、そのものがそのものらしくあるかたち……みたいなことを考えるのがすきなんです」
人やもの、事象をよく見て分析し、それがそれらしくあるためにどう記号化するかを考える。要素を削って重要なポイントだけを捉える。そうすると表現は自然とシンプルなものになっていく……なるほど。これは表現全般に応用できる考えかただ。そして何かをつくるうえでもっとも難しい課題と言ってもいいだろう。
音楽家の依頼を受けてデザインをするときには、どんなことを考えていますか。
「私の場合、同じアーティストから継続でご依頼いただくことが多いので、その人がその時々にもっているムード、つねに変化していくご本人の音楽のありかたをしっかり感じて表現することを大事にしていますね」
音楽家の変わらない部分を手元に置きながら、本人がいま大切にしているムードを表現するデザイン……しかも要素を盛り込みすぎずに……と聞いているだけで、きわめて繊細な仕事であることが伝わってくる。
じつは岩本さん、個人制作ではここ数年ペンギンを作りつづけている。聞くと、ペンギンが理由なくすきだから、とのこと。
「個人制作は、当たり前なんですけど、自分のためにやっていることなので人にどう受け取られるかはあまり気にせず、すきなものをつくっていますね。もともとすきでデザインをはじめたはずで、“ただすきだからやる”ことは大事。個人制作は自分の美意識の根幹を鍛える、“すき”を清めていくような役割なんです」
そしてあらゆるペンギンをつくることは、記号化の練習でもあるという。自分の美学をたしかめ、それを仕事に展開していく。デザインは公私を切り分けきれない。岩本さん自身のシンプルであることへの挑戦は、音楽家たちの作品をたしかに支える表現にもつながっているのだった。
朝の「無の時間」と午後のおやつが欠かせない
さて、以前はほとんど外での仕事だったという岩本さん。終電で帰ってきたあと、くたくたながらも仕事じゃないことで一日を終わりにしたい……と通っていたカフェバーがあった。
「でもコロナ禍で自分もほぼ在宅で仕事をするように変化して、さらにそのお店も閉店してしまって……。食事も家でとるようになったので、頻繁に通う飲食店っていうのが、そこでなくなってしまいました」
そのぶん自宅でコーヒーを飲む頻度があがった。いまの岩本さんにとって、コーヒーブレイクは生活に欠かせない切り替えの時間になっている。
「朝30分、ただコーヒーを飲んでたばこを吸っているだけの“無の時間”があって。起きてからその30分を過ごさないと動けないんです。あと、おやつをほぼ毎日食べる。甘いものがあると心が落ち着くから……そのときにかならずコーヒーかお茶を飲みます。ケーキって本気出せば10秒で食べれるでしょ(笑)飲み物があることで、それを15分とか30分とか引っ張れる。切り替えのために必要な時間です」
デザインはアイデアと集中力の仕事、つまりずっと考えごとをしている状態になる。家事やブレイクタイムを合間に挟んで脳を休めることが不可欠だという。
「デザインがうまく出てこないときって、考えの入り口がズレているというか……洋服屋さんに行って食べ物を探してるみたいな、いくら探しても見つからない状態に陥ることがあるんです。そういうときにコーヒーを飲んでリセットしています」
最近は和菓子にも薄めに淹れたコーヒーが合うって気づいてハマってる、と岩本さんが言うと、話を聞いていた小川さんが「ここ『たつみや』ってたいやき屋さんが近いから、たいやきに合う豆を聞かれることも多いんです」と教えてくれた。おお、家で完成する下高井戸ティータイム! いいなあ。
“小川さんから”コーヒー豆を買いに
岩本さんはもう7~8年ここに通っている。
「豆が切れるとマジで困る(笑)ので、だいたい3~4週間に一度くらいかな。豆が切れそうなとき、あとちょっと仕事が煮詰まったときにも、ここに来て試飲しながら小話してますね。コーヒー豆がおいしいというのは前提ですけど、小川さんの人柄がよくて」
ひょっとしたら友だちより、親よりもよく雑談する相手ということになる。小川さんにも話を聞いてみると、
「お客様の9割が常連さんです。いらっしゃったときは、まずコーヒーを飲んでいく時間がある日かない日かを確認して(笑)、時間帯やお腹の空き具合とかで豆を提案しています。長年のコミュニケーションのうえで成り立ってるプレゼンですね」
との回答。豆屋さんというか、いやもちろん扱う豆がおいしいのは前提にあるが、みんな小川さんに会いに来ているのだと思う。だって小川さん、トークめちゃくちゃうまいんだもん……。
あらゆる音楽家たちが岩本さんにまたデザインを頼みたいと感じるように、岩本さんは小川さんからコーヒー豆を買いたいのだ。
こういう買い物のしかた、したことあっただろうか……。便利とか安いとかでなく有機的なつながりでお金をつかう場所を選ぶしぐさを自分の心が欲しているのを感じ、その欲に逆らわず、私も小川さんから豆を買った。
帰りは岩本さんと駅まで歩いた。駅で別れたあともまた雨が降って寒い。でもかばんにコーヒー豆があり、さっきすごした時間の証明みたいでうれしく心はあたたかい。次に下高井戸を訪れるのはいつになるだろう……はやくもあの空間を回顧した。
岩本さんのデザインはこれからも音楽家を照らし、そして小川さんから買うコーヒーは彼の暮らしを照らす。そういう静かながらたしかにある連鎖のなかにいっときでも居られたことが気持ちよかったのだ。
取材・文・撮影=サトーカンナ