グッモー! 井上順です。
渋谷の街は100年に一度と言われる大規模再開発が進行中。
この先、渋谷はどうなっていくのだろう?
渋谷の街のことは渋谷区長に聞いてみなければ!と思い立ち、『渋谷区役所』を訪れた。
渋谷区長の長谷部さんは、大手広告代理店、博報堂を30歳で退職して渋谷区議に転身したという、ちょっと変わった経歴の持ち主。2015年に43歳で渋谷区長となり、現在3期目を務めている。
長谷部さんとは、僕も渋谷区のイベントやプロジェクトのお手伝いをするなかでご一緒する機会も多い。
世代は違うけれど、渋谷区で生まれて渋谷区で育ったこと、そして「生まれ育った渋谷という街に恩返しをしたい」という思いが僕たちの共通点。
渋谷という街の魅力や未来像についてじっくり話すことができたので、今回は対談形式でお届けしたい。
渋谷は「新しい街」だからこそ、独特のカルチャーが生まれた
井上 長谷部さんは原宿で生まれ育ったそうですが、どんな子ども時代をすごしたんですか?
長谷部 ただの「やんちゃ坊主」でした(笑)。キャッチボールしたり秘密基地つくったり、外で遊びまわっていましたよ。僕が子どものころ(1970年代後半から80年代)の原宿は今ほどにぎやかじゃなくて、空地もあったし、代々木公園や東郷神社でもよく遊びました。
井上 僕が生まれたのは戦後間もなくだったので、代々木公園のところは「ワシントンハイツ」で、米軍住宅が並んでいました。生家はすぐそばの富ヶ谷です。僕も毎日泥んこになって遊んでいましたけど、たまに渋谷駅にあった『東横百貨店』の屋上遊園地に連れて行ってもらうのが、何より楽しみでした。
長谷部 原宿の子どもから見ると、渋谷駅周辺は「大人の街」のイメージでした。中学生のころ、『109』のあたりに出かけて道玄坂を見上げると、なんとなく「繁華街」の空気を感じて、ちょっと大人になったような気分で。原宿はファッションの街なので夜8時くらいには店もほとんど閉まっていたし、文教地区に指定されているから、高層ビルもないしパチンコ店や風俗店などもないんです。
井上 僕は十代前半で「野獣会」というグループに入って、大人に混じって背伸びしながら遊び始めたんですが、たまに原宿に行ってました。
長谷部 野獣会は六本木が拠点じゃないんですか?
井上 六本木が中心ですけど、原宿にも朝方までやっているレストランがあって、たまに遊びに行ったんです。野獣会はファッション業界や芸能界を目指す十代の若者たちの集まりだったので、そういう店でかっこいい先輩方を見て刺激を受けていました。
長谷部 原宿は、新宿駅と渋谷駅に挟まれた独特の場所なんです。戦後、闇市から発展していち早く栄えた新宿や渋谷に比べると原宿は家賃が安かったので、日本全国から一旗揚げてやろうっていう人たちがたくさんやってきました。マンションの一室で洋服のパターンをおこして販売までする「マンションメーカー」が続々と登場し、人気を集めるようになりました。それが1980年代に「DCブランド」と呼ばれるようになって大ブームを巻き起こしたんです。
井上 独特の文化が生まれて根づく空気があったんですね。
長谷部 新しい街だからでしょうね。鎌倉や京都のような歴史のある街ではこうならなかったと思います。
井上 渋谷は明治時代には何もない田舎だったところから、だんだん人が集まるようになってできた街ですもんね。
長谷部 渋谷の人はみんな「自分たちも地方から出てきた」という意識をもっているので、新しく来る人たちにも寛容ですよね。わが家も祖父の代から原宿に住み始めて、僕で渋谷区三代目。まわりも同じような世代で、もっと昔から住んでいるという家は少ない。井上家はいつごろから渋谷なんですか?
井上 祖父が明治時代の末ごろから富ヶ谷で「井上馬場」を営んでいました。日露戦争のあと、日本では馬の質を向上させなきゃいけないってことで競馬が推進されるようになって、祖父はサラブレッドの輸入なんかにも関わっていたようです。
長谷部 渋谷区でもそうとう古いほうの家柄なんですね。
井上 渋谷では古いっていうだけで、その末裔はたいしたことないですよ(笑)。でも、渋谷という街は、僕を育んでくれた重要な要素だと思います。
長谷部 渋谷は、明治の末に代々木練兵場、大正時代に明治神宮と表参道ができて、そのあと関東大震災、戦後、東京オリンピック、とさまざまなきっかけで街が大きく変わってきました。なかでも戦後の「ワシントンハイツ」は街がつくられていくなかで非常に大きな役割を果たしたと思います。表参道が「神社の参道」なのに国際色豊かな雰囲気になったのもその影響ですし、アメリカ文化の影響を受けた世代が、新しい文化・流行の発信源になっていきました。順さんはまさにその世代で、大スターになられたわけです。
井上 いえいえ(笑)、歴史の力ってすごいと思いますよ。そうやって渋谷に人が集まるようになって、注目されるようになったのは若い人の力も大きい。
区議の仕事は「渋谷の街のプロデュース」
井上 ところで、長谷部さんが大学卒業後、博報堂に入社したときは、どんな夢をもっていたのでしょうか?
長谷部 自分の考えた企画やアイデアを形にしていく仕事に憧れをもっていました。コピーライターとか。
井上 仕事はおもしろかったでしょう?
長谷部 仕事が楽しいのはもちろんですが、優秀な同期が多くて、彼らの先進的な考え方にカルチャーショックを受けました。起業精神旺盛で、「いつ会社起こす?」「独立したら何する?」みたいな話が日常的にできる環境でした。僕も30歳くらいで独立してクリエイティブエージェンシーのプロデューサーとして働きたいと、なんとなく考えるようになりました。
井上 仕事が順調で夢もあり、しかも政治の世界とは無縁だったのに、区議会議員になったのは何かきっかけがあったんですか?
長谷部 地元の表参道の商店会の人たちから「区議に立候補しないか?」と誘われたんです。すぐ断りましたよ。「自分の写真がポスターになって街に貼られるなんて、そんなの嫌だよ!」って(笑)。でも、ことあるごとに誘ってくるんですよ。だんだん口説き文句が変わってきて、「政治はソーシャルプロデュースだ。お願いしたいのは表参道、渋谷のプロデュースなんだ」って言われてから、ちょっと面白そうって思い始めて。
井上 それで区議になったわけですか。2009年に表参道のイルミネーションが11年ぶりに復活したのも、長谷部さんが関わっていますよね。あれは東京以外から観にくる方も多くて、かなり街が活気づいたと思います。
長谷部 自分が生まれ育った街だから当たり前すぎてあまり気づいていなかったんですが、表参道や渋谷って「メディア発信力」がある街ですよね。そこを舞台に何かできるのは面白いし、街をソーシャルプロデュースしていくことにやりがいを感じるようになりました。
井上 博報堂時代の経験は、区議になってからも役に立ったでしょう?
長谷部 議会は「プレゼンの場」だと思って企画を提案していたんです。それを、前の区長さんにいろいろ採用してもらいました。区議になって最初にやった仕事が『渋谷はるのおがわプレーパーク』です。僕らが子どものころ遊んでいた秘密基地みたいな、自由に遊べる場所をつくりたかったんです。そういう、提案して作品をつくり出すような感覚が面白いなと思って、やっているうちに区長になっちゃいました(笑)。
井上 お役所って堅いイメージがあったんですが、長谷部さんのおかげで新しい風が吹いた気がします。僕も渋谷区のイベントなどお手伝いさせてもらっていますが、最近は職員の方々が「仕事だからやります」って感じじゃなくて、「どうやったらもっと役に立てるんだろう」っていう積極的な意識をもって取り組んでいるように感じます。
長谷部 それはうれしい話です。職員にサービス精神が出てきたんですね。
井上 長谷部さんのリーダーシップ、フットワークのよさ、スピード感、それが渋谷の進化につながっていると思います。日本初の「パートナーシップ制度」導入も話題になりましたが、あれは人それぞれ思いもあるし、まとめるのは大変だったでしょう?
長谷部 たしかに大変でしたが、あれで日本も変わってきて、意義があったと思っています。でも、それが話題になっていた裏で、実は区長になって最初の一年間は、区の「基本構想」の改定に取りかかっていたんです。基本構想は地方自治体にとって政策の最上位の概念で、国でいうと憲法みたいなものですが、それを20年ぶりに改定しました。渋谷らしさ、ダイバーシティ(多様性)を意識して、『ちがいを ちからに 変える街。渋谷区』という方針を打ち出しました。明確な目標ができて、職員の意識が変わり始めた。加えて、2019年にこの新庁舎ができて一気にIT化、DX化が進んだことで、職員の働き方、雰囲気も大きく変わったように思います。
『渋谷区役所』と『渋谷公会堂』の建て替え費用が「ゼロ」とは?
井上 新庁舎といえば、この15階建ての立派な庁舎が「建設費ゼロ」と聞いたんですが、どういう仕組みなんですか?
長谷部 旧庁舎の敷地の一部を民間のディベロッパー(不動産開発業者)に70年の定期借地で貸し出して、その対価として建設費負担ゼロで新庁舎と公会堂を整備しました。決して区の財政が豊かというわけではないので、できるだけ予算(税金)を使わずにやろうと知恵をしぼった結果です。
井上 渋谷区として今、取り組んでいることはありますか?
長谷部 これから学校の建て直しを20年かけてやっていきます。渋谷区の小・中学校は戦後の同時期に建てられたので、同時に老朽化がきているんです。新しい学校は校庭、音楽室、図工室、体育館、プールなど、地域に開放できるものは開放する前提で設計します。今まで学校は学齢期の子どもとその親しか享受できない空間でしたが、工夫すれば地域のみんなで共有できる。学びも学校も変わっていきます。面白くなると思いますよ。
井上 昔だったらとても考えられないけれど、いいですね。子どもたちには夢をもってほしいし笑顔でいてほしいから、いい環境ですくすく育ってもらいたいなあ。みんなと過ごす時間、友達と交わる時間が、人を育んでいく大事な要素ですから。
長谷部 順さんの母校、松濤中学校は2028年に新校舎が完成します。すごい学校になりますよ。
井上 それは楽しみだなあ。一時期、生徒数が3学年合わせて70~80人に減ってしまったと聞いて、同級生たちと「大変だ。できるだけ寄付してさ……」「いや、お金の問題じゃなくて、人を集めないと……」なんて言って心配していたんですよ(笑)。それが英語教育重点校になって国際教育に力を入れるようになってから、生徒が増えてきたようですね。
長谷部 OBのみなさんが応援してくれるので、だいぶ復活してきました。
目指す渋谷の未来像は「シティプライドの集まる街」
井上 渋谷は「人が集まる街」と言われていますが、最近は外国人観光客も本当に多いですね。東京都のインバウンド訪問率調査で、2022年は新宿や銀座、浅草を抜いて渋谷が初めて1位になりました。訪問した方の満足度も高いようで、うれしいですね。
長谷部 2023年はさらに増えていますね。みんなが来たいと思う街に暮らしているっていう誇りは、子どものころから感じています。
井上 渋谷には『明治神宮』のような日本の伝統文化を感じる場所もあれば、最新の高層ビルもある。『スクランブル交差点』や『忠犬ハチ公像』も人気スポットです。外国の方々がハチ公像の前でうれしそうに写真を撮ったりしているのを見ると、温かい気持ちになります。
長谷部 ハチ公は渋谷の大きな財産、守り神みたいな存在ですね。
井上 インバウンドの受け入れ環境が整ってきたということもありますか?
長谷部 渋谷にホテルが増えたんです。2013年頃は新宿の1/3しかなかったので、観光客は渋谷に遊びに来ても短時間で宿泊するホテルのある街に移動してしまうことが多かった。実は、ラブホテルの建設を抑えるための条例があるのですが、それが一般のホテルの進出まで抑えてしまっていました。条例をちょっと緩和して、10年くらいかけて準備をしてきたことが少しずつ形になってきたと思います。
井上 区長という仕事は、僕らには分からない苦労もあると思うんです。先人の方々が築いてきたことを継承しなくちゃいけないし、そしてまたそれをもっと骨太のものにしていかなくちゃいけない。大変ですよね。
長谷部 そこは本当に重要なポジションだなと思っています。渋谷の先輩たちがつくってきたカルチャーなど非常に大きな財産を、うまく発展させながら次の世代につないでいかなければ。
井上 渋谷の大規模再開発は、まだまだ続くんでしょうか?
長谷部 渋谷駅周辺はあと10年くらい続きます。次は、宮益坂と道玄坂を再整備して、街歩きしやすい魅力的な通りにします。原宿のメインストリート、表参道のような、「渋谷の新たなメインストリート」をつくる計画です。
井上 それはすごい! 何とかそれを見るまで僕もがんばらないと(笑)。では、最後に長谷部さん、渋谷の街の敏腕プロデューサーとして、目指している街の未来像を聞かせてください。
長谷部 「いい街ってどんな街?」ってよく聞かれるんですけど、ひとことでいうのは難しいんですが、あえていうなら「シティプライドが集まる街」と答えています。住んでいる人だけではなく、この街で働く人、学ぶ人、遊びに来る人、観光客も、みんなが「この街はいいな」と思ってくれる、そういう街であり続けたい。この街への思い、誇り、シティプライドが集まれば、渋谷はもっといい街になります。前進していく渋谷区をお楽しみいただけたらうれしいです。僕も楽しみにしています。
渋谷の街の魅力を僕なりの目線でお伝えしてきた「井上順の渋谷さんぽ」、1年間おつきあいいただき、どうもありがとう!
毎月の連載は今回で最終回だけど、僕の「渋谷さんぽ」はこれからも続けるので、渋谷の街でみなさんに詳しくお伝えしたいことを見つけたら、突然また登場するかも!??
また会う日まで、みなさんも日々よいお散歩を♪
渋谷の街にも遊びに来てね。
お街(待ち)していますよ~!
撮影=福山千草 構成=丹治亮子