「駅弁」。この国に鉄道が開通してそれほど経たない、明治十年代には早くも現れているようですが、私は、戦後、高度成長期に入って一気に花ざかりとなった文化、という感じを持っています。庶民が旅行へ行きやすくなってきた頃であり、また豊かさを求めて地方農村部から出稼ぎにきた大勢の人々が、都市とクニを行き来した時代でもあります。
以来すっかり定着し、群馬「峠の釜めし」、北海道「いかめし」、富山「ますのすし」……頭にすぐ思い浮かぶ駅弁は、誰でもいくつかあると思います。とこう書いていてもくぅぅ〜かっこみたい!となってくるほど魅惑的な食べ物ですが、実は、個人的にそう思えるようになったのは、だいぶ大人になってからなのです。
涙で食べた、灰色の味
「駅弁」の二文字は、私にとってずっと、胸がきゅっと締め付けられる響きを持っていました――。
子どもの頃、母の実家(といっても妹のアパート)がある練馬へ泊まりに行って、北関東の郷里に戻るとき、いつも駅弁を買っていました。バブル前夜、世間にカネが回っていた時代です。カネのない親父でしたが、妻子と年寄りを食わすため、トラックで昼夜あちこち稼ぎに走り回り、ほとんど家にいません。日頃は舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)をべったり世話する母。そこを離れ、私と妹と三人、上京する束の間。これだけが当時の母の息抜きでした。
アパートに到着するや、足立区育ちの母は、ソースの濃さばかり際立ち具の少ないもんじゃを嬉しそうにつつき、カルキ臭い銭湯へ行って、風呂上がりの幼い兄弟を四畳半に寝かしつけ、三つ下の妹と深夜までしゃべりながらタバコを二三本吸う。吸いきったあくる日にはもう、街灯もない、寒々しい北関東の村へ戻らねばなりません。
下町育ちなのに、カラスの鳴く寒空の下、葉のおちた柿の木の脇の風呂焚き場で、あかぎれだらけになった手でまきを割り、立ち上がっては関東平野の西へ落ちてゆく夕日を涙目で眺め、じいさんばあさんに風呂を立てる仕事が、20代の母を待っています。
帰る日の夕方、アパートを出て、母と叔母と私と妹、四人は蛍光灯の薄暗さを背に受けて、国鉄東京駅の深いエスカレーターをおりていきます。すでにもう、大人二人は目を赤くしています。子ども二人には何が起きているか分からないけれど、ただ優しい叔母との別れの悲しさがつのってきます。
ホームに至ると、特急がすでに停まっています。クリーム色の図体にあずき色の帯。陰鬱な彩りで思い出されます。母は涙をこらえて、売店でポリ容器の小さなお茶を二つと、駅弁を買い求めます。選ぶというより、子どもの腹を満たすためだけに無造作にひとつをひっつかんだのでしょう。ボックス席に座る兄弟は、やがて駅弁を食べ始めますが、これが、かなしかった。発車時間ぎりぎりまで、母と叔母はひそやかな涙声でデッキで立ち話しています。涙で食べた灰色の味だけが思い出され、何の弁当だったか思い出すことはできません。おにぎりとからあげくらいのものでしょうか。お茶の容器についた小さなコップで、涙をのむようにお茶をゴクリ、と飲んだことだけ、よく覚えています。
さて陰鬱な特急は、のっそりと東京駅から滑り出そうとしています。車内の母子三人と、ホームに残る叔母は、ガラス越し、涙をいっぱい流しながら、いつも今生の別れのように、手を振りあいます。さようならーさようならー。
さよならの味。ずいぶん大きくなるまで、駅弁は私にとってそんな味を思い出させるものだったのです。だから成人したあと、遠くへ旅する列車にのるときも、駅で食事を済ませたり、なにも食べ物は買わないで乗るようにしていました。
シウマイ弁当が打ち払ってくれた
それがここ6、7年、すっかり変わりました。きっかけはこれ。
さよならの味が近寄ってきそうな気配があっても、不朽不滅、絶対安定の大駅弁、シウマイ弁当が打ち払ってくれるようになりました。もうずーっと駅弁はこれだけを買い続けています。あと、缶チューハイですな。
それに、いまや駅へ行っても、国鉄風の空気の重さはホームに漂わず、あずき色の特急は姿を消し、あれだけ遠く感じた故郷も、なんだか近くなりました。叔母は亡くなりましたが、母ちゃんは今も、元気に高速バスにのって東京を行き来しています。
旨いものって、二種類ないでしょうか。
一つは、新しく、珍しい味覚を舌で感じたい、というもの。そしてもう一つは、すでに知った味ながら、改めて間違いのなさ、座りの良さを確かめられて、心を強く、安心させる味。どちらもいいものですが、私はどちらかというと後者ばかり、いつも街に探してしまうのです。
文・写真=フリート横田