本音の純喫茶
私は昭和以来の古びた純喫茶が好きです。本音です。何十年と使われて飴色になったテーブル席まで進み、深緑やワインレッドのチンチラ生地が張られたソファに、沈むように深く座り、ゆっくり店内を見回す。そのときの目にしみる陰影。シャンデリアの照度が低いためばかりではなく、店内あらゆる物の経年劣化と、そこに付着したヤニの黒ずみがそれを作り出します。店主の嗜好と長い時間がつけた、二度と再現できない空間であることに、あらためて感動します。これは本音です。
ややあって、コーヒーカップとソーサーを私の前に配しながら、マスターやママさんが、話しかけてくれます。「横ちゃんひさしぶりね、元気だった?」お茶菓子をサービスしてくれたり、近況報告をやりあったり。ああ、楽しい。本音です。
カップのコーヒーが三割ほど減ったころ、私はおもむろに文庫本を取り出し、読み始めます。ああ、癒やされる――これも本音で……すみません、嘘つきました。これはちょっと、建前入ってます。マスターもママさんも、私が集中して長々読んでいても何も言わず、そっとしてくれるでしょう。その優しさには、本音で感謝しています。
ただ個人経営のお店で、数百円のコーヒーでどれほどねばっていいのか気になって気になって、すぐに時計を見てしまうんですね。結局、それほど時間が経っていないのに、お店を出てしまったり、あるいはお腹たぷたぷでもおかわりをオーダーしてしまったり。どこか、癒やされていない自分に気付きます。
くつろぎ空間の本音
もっと言うと、ときどきはスウェット上下につっかけ姿、頭ぼさぼさ、メガネもどこかへ忘れて、呆けた顔で文庫本を読みつつコーヒー飲みたい、スマホいじいじしたい、パソコン仕事したい、という欲求が強まるときがあります。こういうときは結局、ママさん・マスターの店を素通りして、チェーン店に足が向きます。これ、本音です。
チェーン店だってご商売だから気にすべき点は同じはずなんですが、店員さんは私の顔は知らないし、みなさん経営的責任を負っていない人たちだろう、私の滞在時間なんて気にしてないだろう、私は雑踏の中ののっぺらぼうになれる、という思いがあります。本音の本音です。
よく、くつろぎの空間、などといいますが、結局完全にくつろいじゃってるのは後者のお店であることに気付くのです。
私もよく「画一的なものばかりじゃつまらない。古いもの、ふたつとないものをを大事に残そう」顔をしちゃっているでしょうが、結局のところ、日によって、テンションによって、問答無用に、無慈悲に、使い分けているわけですね。
川崎で見かけたおっちゃん
こんな話をしていると、川崎でお茶したときのことを思い出します。大手チェーン店での一場面。
店内では大学生くらいの男女スタッフが何人か働いていました。そこに、おっちゃんが入ってきました。歩くたびにシャラシャラ鳴るウィンドブレーカーの上下、足元は裸足にサンダル姿。完全なる普段着です。うーん、川崎らしいなぁ、なんて勝手に思ってしまったのですが――
おっちゃんは、よっ、とスタッフたちに笑顔で声をかけていきます。コーヒーをオーダーして適当な席につくと、スタッフが気を利かせて水をもってきました。薬を飲むためのようです。スタッフのみんなと顔見知りなんですね。おっちゃんは数人と短く雑談し、セカンドバッグを脇へ置いてズズとコーヒーをすすり、喫煙ルームへ立って一服して、新聞を読み、そうして私より先に、シャラシャラと音を立てながら退店していかれました。
なんとも、かっこよかったんですよ。本音です。個人経営だろうとチェーン店だろうと、おっちゃんはたぶん、いつも同じ顔でしょう。私はというと、気を張ったよそいき顔してみたり、気を抜いた顔してみたりと、本音と建前を知らず知らず使わけていたと思います。
そのくせおっちゃんがくつろいで新聞読んでるような時間、私はある店ではパソコン仕事やスマホぽちぽちに熱中、またある店ではしつらえや、粋なカップが粋に撮れるよう撮影角度をあれこれ試す。忙しくて、ちっともくつろいでいない。
おもてへ出て喫茶店に足を踏み入れれば、中に入った気になるのですが、実際はそこも「おもて」。これをすっかり、忘れてしまう。
そこで癒やされることとは、甘えることとは似ていても違うことでしょう。
チェーン店が増えたのは、経済効率性やサービス内容の良し悪しだけが理由でもないんじゃないかなと思います。
私のような、おもてに出ても他人にあまえんぼを強いたい、ちょっとわがままで人見知りな、「子ども大人」が増えたからっていうのも、あるんじゃないでしょうか。
文・写真=フリート横田