文明の利器を使わず、勘に頼って雑居ビルの隙間を進む
品川駅港南口。高層のオフィスビルが立ち並ぶ一方で、昭和の雰囲気の残るカオスな路地裏に飲食店が密集している。この日の目的地『浜焼酒場 いちかわ』は、その一角にある。
スマホを片手に港南口から出て、グーグルマップを見てしばし立ちすくむ。地図を見ても、店の周りが道なのか道じゃないのか、どこから入ってどこにつながっているのかよくわからないのだ(そもそも筆者は地図を見るのが苦手ではあるのだが)。とにかく行って、キョロキョロしてみるしかない。
昔流行った巨大迷路に挑戦するような気分になってきた。だいたいの方向の目処を付けて、とにかく雑居ビルと雑居ビルの隙間から路地裏に入ってみることにする。
初めての人は、最初の路地を入るところからして少々勇気がいるだろう。駅前の道をまっすぐ進んで右回りで反対方向から路地に入ってくることもできるが、そちら側も路地の入り口はやっぱり1歩目を躊躇してしまうような雰囲気。それを乗り越えてこそおいしいランチにありつけるのだ!
海鮮丼&納豆&温泉たまごの最強コラボレーション
『浜焼酒場 いちかわ』のランチメニューは炭火焼きの定食900円が3種(サバ文化干、鮭塩焼、地鶏)と海鮮丼950円の全4種類。テーブルに着くと、まるでお通しのように味付け海苔と納豆が出される。
どれにしようかなーとメニューをながめ悩んでいると「海鮮丼はネタがある分しか出せないので、早い時間に売り切れになることが多いですね。それと鮭の塩焼も人気があります。分厚く切ってるんで食べ応えがありますよ」と店長の市川喜章さんが教えてくれた。
炭火焼きも気になるのだが、今日はまだネタがあると聞いて、ならば海鮮丼をいただくことに決定!
ほどなくして味噌汁や小鉢とともに海鮮丼がテーブルに届く。なんと贅沢な海鮮丼! 彩り美しいお刺し身がご飯の上にぎっしり乗っている。味噌汁はお店で捌いた魚のアラを使ったあら汁。旨味たっぷりで体にしみる滋味深い味わいだ。小鉢は日替わりで、この日は塩だれのかかった冷奴。そして温泉たまご。
この日の海鮮丼のネタは、マグロ、カツオ、カンパチ、炙りしめさば、北海ダコ、イカ、ホタテ、エビ。こんなにいろんな種類のお魚をいっぺんに楽しめるなんて! これで950円はお値打ちだ。
幸せな気分で新鮮なお魚をひとつひとつ味わいながら、ふと、「どのタイミングで納豆を食べるの?」という疑問が浮かぶ。定食ならお茶碗のご飯に納豆をかけて食べるのだけれど、丼ものだとそれだけで完結してしまうから納豆の出番がないなぁ。
「ご飯はおかわりできるんで、みなさん海鮮丼を食べたあとに普通に納豆ご飯食べてますよ」と市川さん。ほほう、丼ものをたいらげたあとに納豆ご飯までいただけるとは。焼き海苔もあるし、あら汁だっておかわりできる。……いやいや、大食いさん大喜びセットではあるけれども、一般的な胃袋なら海鮮丼だけでお腹いっぱいになっちゃいますよー。
すると、「“ばくだん丼”にして食べるのもおすすめですよ」と市川さんが教えてくれた。ばくだん丼とは、海鮮丼に卵とねばねば食材をぶっかけて食べる料理のこと。なるほど、温泉卵もあるし、よし、ぶっかけてみよう!
納豆のねばねばと卵のトロトロとお魚の旨味が混ざり合って極上のマリアージュ! すくう場所にあるネタによってひと口ごとの味わいが違うのも楽しい。これは病みつきになるやつ! 毎日食べたくなる。
思いきって路地裏に足を踏み入れれば、そこは美食天国
店の開業は2011年。当時の店長の名を冠して「大衆浜焼き 清水清太郎」という店名でスタートした。
現店長の市川さんは神奈川県小田原市のご出身。真鶴のオーベルジュに勤め調理の基礎を学んだ後、外食産業の大手に就職し、飲食業の経験を積んだ。その後、『いちかわ』の姉妹店である寿司店『握や(にぎりや)』に入り、2年ほどして「大衆浜焼き 清水清太郎」を任されることに。2021年には店名を『浜焼酒場 いちかわ』に変えた。
現在はところ狭しと居酒屋が立ち並ぶこの路地裏だが、「清水清太郎」ができる前、この場所には精肉店があったという。「この辺りは精肉店や焼き肉屋さんが多かったと聞いてます。すぐそこに食肉市場があるのが関係しているんでしょうね。最近ですよ、ここまで居酒屋ばかりになったのは」と市川さん。
お店同士のお付き合いはあるんですか? と伺うと「全然ありますよ。『向かいの店のメニュー持ってきて』っていうお客さんもいたりして。逆にほかの店のお客さんからうちの寿司が食べたいと注文が入ったり」と市川さんは笑顔で話す。なんてステキなご近所付き合い! これぞ路地裏の醍醐味だ。
近年、品川駅周辺は再開発が進められ、ここそこで大きな工事が行われている。「不思議とこの辺だけ開発に引っかからずにぽっかり残っているんですよね。このまま引っかからないといいなって。いつまでもお客さんとわいわいできたらと思ってます」と市川さんは話す。
お客さんの8~9割は常連さんだそうで、意外にも若い女性の常連客もけっこういるんだとか。「1度来て、店の和気あいあいの雰囲気を気に入ってくれるとまた来てくれたりするんです」と市川さん。
路地裏は昼間でもちょっと薄暗くて独特な空気感があるけれど、お店はどこも新しめできれいだし、店の前まで来れば入ってみようという気持ちになる。超えるべきハードルは路地の入り口。薄暗い路地に一歩足を踏み入れる勇気だ(笑)。
『浜焼酒場 いちかわ』の自慢のメニューは、店内の生け簀から引き上げられる新鮮な魚や貝が堪能できる浜焼き。「日本酒と一緒に楽しんでほしい」と市川さん。常に数種類の地酒を取り揃えているそう。
路地に入る1歩目を躊躇することによって、この旨いものたちにありつけないのはもったいない! 入ってきてしまえば、そこはおいしいもの天国。路地裏初心者のみんな、勇気を出してこのハードルを超えよう!
浜焼きに合う日本酒も気になるし、またランチも食べに来たい。次来るときもまた「どこから入るんだっけ?」と雑居ビルの周りをウロウロしてしまうんだろうな。路地裏をぐるぐる迷うのもまた楽しかったりする。
/定休日:無/アクセス:JR・私鉄品川駅から徒歩3分
取材・文・撮影=丸山美紀(アート・サプライ)