ジャンルを問わず新しい味でお客を楽しませる
昼の来店客の7割が注文するという人気メニュー、今週の丼セット。さっそくオーダーしてみよう。この日のセット内容は、生のりとろろのせ海鮮丼と、豚とゆばのサンラータンメン。
「お客さんにいろんな味を楽しんでいただけるように、2つとも週替わりにしています。海鮮丼にのせるトッピングを変えて、いろんなジャンルの麺類をご提供しています」と教えてくれたのは店主の渡邊一敏さん。
出汁でのばしたとろろをのせた海鮮丼のほかに、ナムルや海老マヨ、ねぎとろユッケをのせたものなど、変わり種も出している。麺類は、アジフライそば、タンドリーチキンのせうどん、ゴーヤチャンプルーうどん、などなど一風変わった味つけのものも。「次はどんなものをお客さんに食べてもらおうかと考えるのが楽しい」と職人さんたちは笑顔で話す。
それでは、まず海鮮丼から賞味することに。本日の具材は、中トロ、鯛、平政、アオリイカ、平貝。旬の魚をメインにおいしいものを市場で見極めているそうで、具材の内容は仕入れによって毎日変わる。
ひと口大の賽の目なので、口の中でいろんな食感が楽しめて、一粒一粒が味わい深い。さらに、舌触り、歯触り、味を決める熟練の包丁さばきが、魚介の旨味を倍増させている。
週替わりの麺類も実にユニーク! 基本は和食、だけど「こだわりがない」のがこだわり
しかし、日本料理店なのになぜラーメン? 今週はサンラータンメンにしてみようとアイデアを出した職人の江ヶ﨑強志さんに聞いてみると、「お客さんを飽きさせないように、奇をてらったものにもチャレンジしてます」。意外性を追究していくうちに、ジャンルは多国籍に及んだようだ。
丼セットの麺類を作るうえでのポイントは、「和食の丼ものと一緒に食べていただくので、甘味や辛味、酸味が主張しすぎないように、やさしい感じの味に仕上げてます。ごはんを食べる時の汁がわりになるようにって、いつも考えながら作ってます」。
確かに! 辛すぎず酸っぱすぎず、中華料理店のサンラータンメンとは別もので、和の出汁の風味がしっかり感じられる。ほどよい酸味で口の中が何度もリセットされるので、自然とごはんも進む。最後は一滴も残さずにスープをするすると飲み干してしまった。
「うちは新人の頃から一品、担当を任せるんですよ」と渡邊さん。「こだわりがないのがこだわりなんで」と、若手の自由な発想も積極的に取り入れているという。また、自分が作った料理をお客さんに食べてもらって、「おいしい」のひと言をいただくことで職人の魂が磨かれていくのだとも。
本日いただいた副菜は、職人歴6年の瀧澤良太さんの手によるもの。親方や先輩と和気あいあいとかけあいながらも、調理に専念する時のまなざしは真剣そのものだ。
渡邊さんが病気で半年ほど板場を離れた時は、江ヶ﨑さんを中心に若い職人たちが見事に店を切り盛りした。その様子をカウンター越しに見ていた十年来の常連さんが、「あの強志が親方の代わりに……」と目を細めていたという。
職人たちを家族のように想う先代の遺志を継ぐ
平成の初期に創業した『板前心 菊うら』。当初は新宿コマ劇場近くの小さな店だった。2002年、現在の場所に移転。グルメな人びとの注目を集める繁盛店となった。
店を移転してから15年が過ぎて順風満帆と思われていた矢先、創業者の菊浦達氏が体調を崩され亡くなる。皆が悲嘆に暮れるなかでこのまま店を続けていけるのか、誰もが答えを出せずにいた。その時、「『菊うら』は僕が守っていきます」と手を挙げたのが渡邊さん。菊浦氏と女将が全幅の信頼を寄せる職人が『板前心 菊うら』の窮状を救ったのだ。
渡邊さんは故郷の青森を出て上京して以来、30年もの間、先代に仕えてきた。「修業の身で初めて入った店で親方と知り合って、親方が別の店に移るっていう時には僕も一緒についていってね。ずーっと一緒に仕事をしてきたんですよ」と、当時を懐かしむ。
店を継いだ理由を伺うと、「志を持った若い職人が一緒にがんばってくれていて、私たちを応援してくださるお客さんもたくさんいます。何よりここは、巣立っていった子たちの心の拠り所ですから。なんとしても続けようって決心したんです」。
職人やスタッフを家族のように大切に思っていたという菊浦氏。その想いも受け継いで親方となった渡邊さんは、今も尊敬する兄貴分の背中を追いながら多くの若手を育てている。
愛情深い親方に時に厳しく時に優しく導かれながら、楽しそうに料理を作る『板前心 菊うら』の志高き職人たち。彼らの成長ぶりを先代もきっと、天国で見守っていることだろう。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=コバヤシヒロミ