古今亭菊之丞
1972年、東京都渋谷区生まれ。中学時代から寄席に通い詰め、91年、高校卒業と共に二代目古今亭圓菊に入門。前座名の菊之丞をそのままに2003年、真打昇進。その色気のある高座と容姿から「丞さま」と呼ばれる。落語協会理事。
神楽坂での落語会は、もう17年にもなりますかねぇ。毘沙門様 (善國寺) で過去にやった落語会を復活させたいと、私んとこへ連絡が来たのが最初です。「粋なまちづくり倶楽部」というNPOの方からね。それじゃあっていうんで、「神楽坂毘沙門寄席 菊之丞の会」 として始めたのがきっかけです。その4年後には「神楽坂落語まつり」もスタートしました。「神楽坂まち飛びフェスタ」という街のイベントがありましてね、「毘沙門寄席」も何度か参加しましたよ。
それが(高座にかけた全てのネタを記録した手帳を見ながら)平成17年(2005年) 。それ以来、年に4回のペースを変えずにきました。20年と21年はコロナでできませんでしたが。初期の頃は前座と色物さん、そして私が2席。今は前座の後に私が2席です。
ここの会はね、別に他所(よそ)の落語会とネタを変えている訳じゃないんですけど、楽しいんですよ。素直なお客様が多くてやりやすい。陽気で、反応がとてもいいんです。客席はキャパ100人のこぢんまりしたお座敷ですから、お隣同士との連帯感も生まれるでしょ。場内は肉声で通るし、お客様の表情も見やすい。今、 マイクなしの寄席は『池袋演芸場』だけですからね。
何でしょうねぇ、ここへ来る時、いつもうきうきしますねぇ。仕事っていうと気が重くなったりするんですけど(笑)、ここは違うんです。素敵な街でしょ。落語会の日は少し早めに行ってね、お参りしたり、お店見たり。こんな路地があるんだなぁとか、こんな乙な小料理屋があるから今度来てみようとか、歩く楽しみがある街です。
やっぱり神楽坂には落語が似合うんですよ
落語が似合う街ですよ。昔、 「神楽坂演芸場」 (後に 「神楽坂演舞場」 となってからも、多くの落語会が開催。柳家金語楼のホームグラウンドだった)ってのがあって、一流のお席だったそうですよ。街の人もなんとなく、常に落語といるみたいなところがあって、古くは三遊亭金馬 (現金翁) 、先代林家三平、春風亭柳昇なんて方々が、毘沙門さまで新作の会ってのをやってたそうです。師匠方が若い頃、新作を作っちゃあ、神楽坂でかけてたと伺いました。三平師匠がなかなか新しい噺が覚えられなくて、いつも同じ噺をやってたよって、金翁師匠から伺いました。でもそういう街だから会をやりたかったのではなく、頼まれたのがきっかけです。顔付けはお任せしますと言われているので、この街に合うような噺家さんにお願いしてます。
街の縁、人の縁、そして落語の縁に呼ばれて
お店の入れ替わりは仕方ないけど、毘沙門様は変わらないじゃないですか。あそこだけ時が止まってるみたいな。畳敷きの会場の雰囲気も変わらない。年に4回、季節の変わり目にやるってのは強みがあって、春夏秋冬の噺を聞いていただける。そしてその季節の着物が着られる。夏は夏の噺があって、それにふさわしい着物を選んでね。最初はお客さんが入らなかったんですよ。でもある時から、発売と同時にパ〜っと売れちゃうようになってね。界隈のお店や料亭がチケットを売って下さって、いつもお世話になってるんです。
お寺の桟敷席、ちょっとした高座があって、これが寄席の原風景ですよ。落語のあるべき姿が残ってる。なにより商店会の人たちが、なんか落語がないと寂しいねって、しっくりこないねってお考えなんです。だから私たちを大事にしてくれるんですよ。街が脈々と持ってる落語のDNAみたいなね。
年4回のうちの1回は、簞笥ホール(牛込区民ホール)でやるんです。こっちは二人会。私と(林家)正蔵師匠だったり、私と(柳亭)市馬会長だったり。
毎年開催の 「神楽坂落語まつり」 は若手中心に組むことが多いかな。このご時世で毘沙門様でできなかったのですが、2021年は赤城神社さんが引き受けて下さって、6月に参集殿で落語会を開催しました。今思うと、できたことが奇跡みたいですよね。
赤城神社は、うちの師匠(二代目古今亭圓菊〔1〕)が定期的に落語会をやってた場所なんです。その頃はまだ古い時代の建物で、一度私も師匠のお供で来たことがあります。今はモダンですごいでしょ。隈研吾さんの設計だそうです。新しいホールも落語向きで、芸協の若い子たちが会をやってますよ。
〔 1 〕二代目古今亭圓菊
1928年、静岡生まれ。五代目古今亭志ん生門下。個性的な仕草と高座ぶり、そして手話落語で、独自の世界を拓いた。多くの弟子を育て上げ、菊之丞さんは9番目の弟子。2012年逝去。
落語会以外で、神楽坂に夜プライベートで飲みにくることはありますけど、昼間はねぇ(笑)。『英(はなぶさ)』さんに目掛けて行くくらいです。うちの師匠もこちらであつらえてましたし、私自身もお付き合いは20年じゃきかないでしょう。洗濯機でじゃぶじゃぶ洗えるけど、クオリティーは素晴らしいんです。師匠はほとんど無地でしたけど、私は縞柄を選ぶことが多いです。古今亭といえば縞物ですから。どんな無理な注文でもあつらえてくれるんですよ。
『志満金(しまきん)』さんのご主人はお茶の師範でしてね。私が茶道に因んだ噺を一席やり、そしてご主人のお点前という会を、お店で催すんです。『Bitter(ビター)』さんは、 志ん朝師匠のお宅の近くにある 『ブラッセルズ』 というビアバーにいた西條さんが、独立して姉妹で始めたお店です。神楽坂での飲み食いは和ですからね。『伊勢藤(いせとう)』さんや、落語会の主催者の方に教えていただいた、ちゃんこ鍋の『琴乃富士』さんに行ったりね。小料理屋か寿司屋に行って、それからもう一軒って時に寄るんです。白ビール飲んで、それじゃワインにしようかってね。私が「青坊主」って呼んでるビールがあって、これがまたうまいんですよ。神楽坂って、どうしても一杯やりたくなる街なんです。
そうそう、和菓子屋の『梅花亭』さんにある「浮雲」というお菓子が、ふわふわ〜っとしておいしくてねぇ。いっとき、手みやげっていうと、わざわざ神楽坂に寄って、買って行くなんてこと、よくありましたよ(笑)。
心に刻まれた矢来町の師匠の思い出
矢来町にある志ん朝師匠〔2〕のお宅に初めて伺ったのは、26年くらい前ですかね。噺家は二つ目になって初めて、正月の挨拶回りができるようになるんです。紋付袴で仲間と連れ立ってね。
いや〜、ドキドキしましたよ。料亭みたいな素晴らしいお宅でね。各師匠方の家には正月の名物料理があって、うちの師匠の家はとろろ、先代正蔵師匠んとこは牛すじを煮た牛めし。志ん朝師匠のお宅はカレーライスでした。初めて食べた時はうれしかったですよ。
志ん朝師匠がお亡くなりになった時、私は 『末広亭』 にいたんです。兄弟子から電話があって、矢来町にすっ飛んで行きました。あの時に呼ばれてなかったら、お会いできなかったかもしれません。住吉踊りの浴衣を着て、もう今にも起きそうな穏やか〜な顔でね。弔問を終えて、じゃあ『ブラッセルズ』で飲もうって。噺家ですからね、馬鹿っ話して、わーっと騒いで、じゃあ帰ろうってタクシーに乗った途端に泣けて泣けて……。まだまだお会いできると思ってたし、いつか稽古してもらおうと思ってましたからね。
神楽坂は花街の華やかさと、しっとりした落ち着きがありますね。若い子が好きそうなお店も多いけど、歩いて回れるくらいのエリアに、ひょいと路地を入ると料亭や小料理屋がある。粋とモダンが混在した、不思議な色っぽさを持った街です。浅草や新橋や向島もいいけど、全然違いますでしょ。20年、21年とできなかった毘沙門寄席も、また再開できますよ。ご無沙汰だった神楽坂通いが、またできますね。
〔 2 〕志ん朝師匠
三代目古今亭志ん朝。1938年、東京生まれ。父は昭和の名人・五代目古今亭志ん生。その粋な気品と話芸、そして明るい高座から、 「朝さま」 と愛され慕われた。長く矢来町に住み、2001年逝去。
【菊之丞師匠の行きつけはこちら】
きもの英
噺家御用達の洗える着物の最高峰
1967年の創業以来、洗える着物一筋に製造販売してきた呉服店。見ても触っても正絹と判別できないほどのクオリティーと、同じ反物は1つか2つしか作らないという徹底したポリシーから、東西70人もの噺家に愛用されている。各々の趣味や好みを熟知する2代目主人の武田佳保里さんは、噺家の強い味方だ。菊之丞師匠の着物の9割ほどが、こちらのお店のものだという。着物は一着、仕立て代込み10万円程度。
『きもの英』店舗詳細
志満金
創業150年を超える、神楽坂の顔
夏目漱石や泉鏡花の小説にも登場する、明治2年(1869)創業の、うなぎと割烹料理の老舗。その時最良の産地のウナギと、甘さを抑えた一子相伝のタレを使ったその変わらぬ味を求め、親子3代にわたる常連や、お稽古帰りの芸者衆など、歴史ある花街らしい顧客も多い。6代目主人の加藤正さんは、茶道裏千家の師範の資格を持ち、店舗地階にある茶室で、定例のお茶事や茶道教室も開催している。
『志満金』店舗詳細
BEER BAR Bitter
ベルギービールをオリジナルグラスで
ベルギービールだけでも常時60種を揃える専門店。定番の白ビールから、菊之丞さんが「青坊主」と呼ぶ、セントベルナルデュス・アプトなどアルコール度数10%を超える個性的な味のものまで揃う。タップ数は3種類だが、タイプの違う選りすぐりのビールが味わえる。ビールは銘柄専用のグラスを使うのが、店主・西條真弓さんのポリシー。カウンターに並ぶかわいいグラスは壮観だ。
『BEER BAR Bitter』店舗詳細
取材・文=高野ひろし 撮影=三浦孝明
『散歩の達人』2021年12月号より