腰越堡塁から歩くと、北門第三砲台跡が近いです。この砲台は「海の見晴台」にあります。散策道を進んでいると、右手に何やらトンネルが現れてきました。軽便鉄道が走ってきそうな小さなレンガのトンネルです。鉄道なんてあったかなと標識を見ると、第三砲台はこのトンネルを抜けた先にあるとのこと。トンネルは砲台への連絡のために掘られたものでした。
レンガのトンネルは、鉄道ではよく見かけます。それを一回り小さくした感じで、いまとなっては歩行者専用ですが、現役時は車や馬車などの車両が通行したそうです。
薄暗いトンネルに入ってみると、車の幅分はありそうなほど。薄暗いトンネルは、江戸川乱歩の小説に出てきそうなおどろおどろしさもあります。トンネルの先には妖しい住人が住む古びた洋館があって…と想像していると、ちょっと怖くなってきますね。
と、出口の柵にはコンクリートで蓋をされたレンガアーチの構造物が、林の中にひっそりと残されているのが目に入りました。いよいよ小説に出てきそうな薄気味悪さがしてきますが、これは第三砲台のシェルター(掩蔽部=えんしょうぶ)跡です。蓋をされた中は窺い知れることができませんが、トンネルを出るとすぐに砲台の敷地内なんですね。
そして掩蔽部から視線を右に移すと、今度は重厚な石垣で組まれた基礎のようなものが、林と同化するかのように潜んでいます。一見して、自然の中に何の構造物が埋まっているようで、遺跡なのだろうかと首を傾げてしまいましたが、これが砲台の本体部分です。
おお……。
円形の砲座部分には立派な木が育ち、というより、砲座の壁部分である「胸墻(きょうしょう)」に木の根が絡まっています。石垣とレンガで組まれた敵砲弾の被害を食い止める堤「横墻(おうしょう)」は、一部が崩れ落ちて、石垣の隙間から立派な木がしっかりと根を張っています。
三軒家砲台跡のときも感じましたが、ここも密林の中で静かに時を刻んでいる古代遺跡の荘厳な空気が流れている。そんな気がして、しばし茫然と佇んでいました。ここは、砲台が自然に呑まれているのだ……。
北門第三砲台跡は、横墻の左側にも砲座がありました。今は海の見晴台として整備されて跡形もありません。まだじっくりと見たいのですが、日没の時間が徐々に迫ってきます。先を急ぎましょう。先ほどのトンネルから、ショッピングカートを引いた老婆が現れました。一瞬驚きましたが、老婆は何食わぬ顔で砲台のほうへと歩いていく。やはりこのトンネルはちょっと怖いものがあるな……。
次は日本初の西洋式砲台「北門第一」、「北門第二」砲台跡です。この二つは明治13年(1880)に着工し、第一砲台の砲座は2基、第二砲台は6基配置されていました。トンネルを出たあとに進む散策道は途中で二手に分かれ、左へ進めば第二砲台跡、右へ進めば第一砲台跡へ至ります。
北門第一砲台跡へ行ってみましょう。道なりに坂を下り、途中で海上保安庁「海上交通センター」の門を横目に、今度は坂を上ります。観音崎は海上交通センターや海上自衛隊施設があり、一部箇所は立入禁止区域となっております。坂道を登っていると、前方になにやらトンネルの口が開いているのが見えました。
「おや。これはまた軽便鉄道のトンネルに似ている……。」
そう見えたのも不思議ではありません。蔦の絡まったレンガ壁面に小さなトンネルの口が開き、周囲の鬱蒼(うっそう)とした森と相まって、廃線跡のような雰囲気すらします。それは横墻でした。第一砲台跡の構造は、横墻を中央に配して左右に砲座が1基ずつあり、横墻の地下部分には弾薬庫を配置。左右の砲座間と弾薬のやりとりは、このトンネルを伝って行われていました。ただ、残念ながら弾薬庫は埋められたようで、いまは窺い知ることができません。どんな姿だったのだろう。埋められたとなると気になってしまいます。
もう夕方も遅い時間なので、砲台跡に人影はありません。横墻に築かれた土盛には木々が青葉を広げ、砲台全体を覆い尽くす勢いです。砲座部分は一段高くなっており、中央部にある横墻の姿と相まって、何かの神殿か青空舞台の跡にも見えてきます。砲座に何も無いので、現役時はどんな姿だったのか、ちょっと想像するのが難しかったです。
夜の帳が下りる時間も迫ってきます。観光名所の観音崎灯台はまた今度。北門第二砲台跡へ急ぎます。道を戻り、北門第二砲台跡へ通ずる道を進みます。途中で右に分岐する道がありますが、その先は旧第三砲台の跡が残る海上自衛隊施設です。そっちも気になるけれども立入禁止なので諦めましょう。
石垣の掘割となった道が途切れ、前方に鬱蒼とした森の中に青空舞台のようなものが確認できました。北門第二砲台の砲座部分です。第一と同じ時期に誕生した第二砲台は、段々状に砲座が連なっている構造でした。道に沿って砲座部分と横墻部分が連なり、横墻と砲座は蔦と木々で覆われています。いくばくの月日をここで過ごしてきたのでしょうか。
鳥のさえずりがこだまし、そよ風で触れる枝葉の音。静まった空間に佇んでいると「ここはどこの王族の墓所だろうか……?」 砲台跡という存在を忘れ、夕闇迫る古代遺跡へ迷い込んでしまった気持ちでいっぱいです。
そして背後を振り返れば、柵でガードされてポッカリと口を開けるトンネルが、森の中で廃トンネルのオーラをぷんぷんと醸しています。が、これはまだ現役。トンネルは先述した「海上交通センター」の門と通じており、ここを通ってセンターの施設へ行くことができます。第二砲台の一部はセンターの施設となっており、6基あった砲座のうち、3基は施設造成のときに解体されたとのことです。
残された3基の砲座部分を観察します。砲座には立派な木が聳(そび)え、胸墻も蔦で覆われています。もうこれは古代遺跡そのものの姿。観音崎砲台跡のなかでは群を抜いて自然と一体化しております。横墻は岩盤を利用していますが、いまや岩盤に飲まれて同化しているような姿です。
各砲座には、地下弾薬庫へ通ずる通路がポッカリと地面に空いています。金網でガードされていますが、金網がなければストンと通路へ落ちてしまいます。現役時は段々状に砲が並び、兵士がキビキビと動き回りながら、東京湾を守っていたのでしょう。墓所みたいな雰囲気が十二分に漂う現在からは、想像するのが難しいですが……。
今回は見所がたくさんあり、駆け足でいつもより長めに紹介しました。観音崎砲台群は立入禁止の部分もあって、全て見られるわけではありませんが、気軽に散策しながら明治期の国防遺構を観察できます。人々の憩いの場にひっそりと残っているというのも、なかなか良い雰囲気です。
取材・文・撮影=吉永陽一