吉永陽一(達人)の記事一覧

吉永陽一
達人
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。
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岬の自然公園には遺構が点在する。大房岬に残る東京湾要塞の痕跡。~大房岬砲台前編~
「廃なるもの」では、神奈川県横須賀市の観音崎砲台群や千葉県富津市の元洲堡塁砲台と、しばし砲台跡を巡ってきました。それらは東京湾要塞として明治13(1880)年から建設、砲台が配備されたもので、他にも神奈川県と千葉県には要塞跡や砲台跡が公園となって点在しています。比較的安全に“廃なるもの”を観察するには、こうした砲台跡は手ごろであり、いわゆるラピュタ的世界も味わえるので、廃墟散策の百戦錬磨からルーキーまで様々な方が訪れるのです。そのうちの一つが、千葉県の大房岬砲台です。南房総市大房岬自然公園内に遺構が点在し、さながら宝探しのオリエンテーションのように巡ることができます。東京湾要塞は昭和に入ってからも建設され、東京湾の南に突き出ている大房岬は、首都防衛のために昭和3年(1928)から4年の月日をかけて建設された砲台です。岬の地形を活かして砲台と付帯設備が築かれ、終戦間際には海岸部に魚雷艇の基地も配備していました。今まで巡ってきた砲台跡は明治期の日露戦争前の遺構で、レンガ構造物が多かったのですが、大房岬砲台は昭和初期に建設されたため、遺構はコンクリート構造物となります。
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鉄道開業150年、東京・横浜で鉄道遺構を訪ねる
今年2022年は、1872年(明治5)に日本で鉄道が開業してから150年の節目です。150年は一世紀半。4世代前、いやそれ以上か。あまりにも長い年月でピンときません(笑)。長きに渡って街も鉄道も成長し変貌しました。そこでこの節目の年に、東京・横浜で鉄道遺構を訪ね、鉄道開業150年の歴史に触れてみましょう。
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海底に眠るプラットホーム。関東大震災で沈んだ根府川駅の遺構をスクーバダイビングで巡る
今回は11年前、2011年に訪れた関東大震災の遺構です。震災遺構を廃なるもの(=廃墟)として括るのはどうなのかなとも考えてしまいますが、この読み物では戦争遺構も紹介しており、歴史の遺構の括りとして紹介します(では城跡は?というと収拾つかなくなるので、明治以降の近代遺構としています) 。今回の場所は地上ではなく、ましてや空からでもなく……海です。11年前の撮影ですが、おそらく現在も変化ないでしょう。JR東海道本線根府川駅は相模湾に迫り出す山腹にあります。ホームからは大海原が望め、温暖な気候と相まって長閑な空気に包まれている大幹線の駅です。駅は大正11(1922)年、東海道本線の前身である熱海線開通と共に誕生しました。駅舎は大正13(1924)年築。その間には関東大震災がありました。大正12(1923)年9月1日の関東大震災は、多くの被害がありました。熱海線の被害も甚大で、数箇所で山津波や地滑りによって、鉄橋を含む線路設備がズタズタに破壊されました。中でも根府川駅は、ちょうど進入してきた下り旅客列車と駅が地滑りによって海中へ没する大惨事となってしまい、駅の西側に架かる白糸川橋梁も地震による土石流によって流され、駅周辺の集落も土石流に飲まれました。
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監的塀(かんてきへい)と射入窖(しゃにゅうこう)に出合う。陸軍富津試験場の遺構~その3
前回は旧ザクの頭かと思った監的所の跡を見て終わりとなりました。今回はその続きです。監的所のある場所から駐車場方面へ歩を進め、親子がワイワイとキャッチボールをする憩いの広場へ出ました。南側にある茂みへ向かい、その先にある富津試験場の遺構を目指します。
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監視台編その2。千葉県富津市の松林に埋まる旧ザク~富津の砲台跡は陸軍富津試験場となり、現在も遺構が点在する
前回はのっぺらな監視所を紹介したところで、ボリュームいっぱいになったので終了しました。今回は続きです。監視所を離れて次の場所へ向かいます。小型の見張り施設、監的所(警戒哨)です。これもコンクリート構造とのことで、監視所と同時期に造られたと考えられます。来た道を戻り、ちょうどジャンボプール付近の松林へ入ります。散策道になっているから安全ですね。しばらく東方向へ歩いていると「監的所(トーチカ)」と記載された戦争遺構ガイドの看板がありました。警戒哨、監的哨、監的所、トーチカ。言い方はそれぞれ異なりますが、廃なるものでは監的所で統一します。
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富津の砲台跡は陸軍富津試験場となり、現在も遺構が点在する~監視台編その1
前号は元洲堡塁砲台を紹介しました。この砲台は除籍後の大正8年(1919)、陸軍技術本部に移管され、第一研究所富津試験場(注)として兵器の試験射場となりました。(注:昭和17年に陸軍兵器行政本部第一陸軍技術研究所富津試験場へと整理統合)研究所となった砲台跡は、近距離の兵器を試験する射場となります。扇状の砲台跡の周囲に射場の設備や、数カ所に監的所(警戒哨)や監視所のコンクリート建築物が設置されました。それらの設備は1940年代はじめに建設されたそうですが(続しらべる戦争遺跡の辞典 柏書房による)、富津試験場となった大正時代からポツポツと建設されていったかもしれません。
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東京湾要塞の痕跡を辿る。富津公園の元洲堡塁砲台跡
東京湾は、江戸時代末期に外国からの防御のため台場が築かれました。外国船舶の往来が増した明治時代になると、海防の要として、浦賀水道を防御するように要塞が整備されました。
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公園に残存する国内初の常設型西洋式競馬場「根岸競馬場一等馬見所」。
新年早々の根岸森林公園は、数日前に積もった雪が広場に残り、子供たちが雪やボールで遊び、笑い声の絶えない憩いの場となっています。時刻は西日が眩しい夕刻時。子供たちの歓声の向こうに、背の高い建造物のシルエットが逆光の光から浮かび上がります。公園内には不釣り合いなほど巨大な建造物。近づいてみると、柵に囲まれて入れない廃墟です。いよいよ不思議な光景に出会しました。正体は「根岸競馬場一等馬見所」。そう、ここは競馬場の跡地だったのです。
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茨城県『竹内農場西洋館』。田畑の先の林には、レンガ造りの洋館が眠っていた。
年末、この時期になると取引先の挨拶回りに出かけます。茨城県竜ヶ崎市には空撮でお世話になる竜ヶ崎飛行場があり、そこへ行くついでに何気なくネット地図を眺めていると「竹内農場西洋館」という史跡マークを見つけ、「あ、いつも空撮へ行くときに走るバイパス道路のすぐ近くだ。どれどれ」と史跡マークをクリック。「ヲお……」思わず声を漏らしてしまいます。PC画面に映し出されるのは、朽ちたレンガの建物! 林の中に屋根が崩れ落ちたレンガの廃屋が佇んでいる。ああ、江戸川乱歩の小説に出てくるような「繁栄した一族の栄華が染み込んだ洋館の廃墟」のような風格です。かつては瀟洒な洋館であった廃墟。それが、身近なところの近くにあるとは。飛行場への挨拶の前に、さっそく訪れてみました。
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奥多摩に眠る都内随一の廃線跡を道路から愛でる 小河内線跡その2 
前回は第三氷川橋梁までの探索でした。後半は終点の水根まで「奥多摩むかし道」を歩きながら巡ります。緑茂る奥多摩とはいえ、夏場だとかなり暑くなります。訪れたのは6月と11月で、6月はまぁまぁ汗だくになりました。11月はまだ身震いするほどの寒さではなかったから、落葉に近い紅葉と遺構の対比が美しかったですね。奥多摩むかし道は、車一台分の幅の生活道路と合流します。小河内線は第四氷川トンネルで抜けています。むかし道の整備で設置されたトイレで小休止。ここから先はこの生活道路がむかし道となります。たまに車が来るので気をつけましょう。
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