吉玉サキ(達人)の記事一覧

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知り合いを追悼するため、信州の夏空の下へ行った
出不精な私にとって、旅行は家族や友達に誘われて行くものだ。自分が言い出しっぺになることは少ない。しかし、少し前に友人と3人で行った信州旅行は私が言い出したものだった。そのきっかけはFさんだ。Fさんは4年ほど前にnoteで知り合った男性で、実際に会ったことはないものの、ネット上で交流を続けてきた。年齢は知らないが、おそらく一回りくらい年上だと思う。信州に住むライターで、私とは比べものにならないほどベテランなのだが、私が駆け出しのときから対等に接してくれる。いつか信州に移住したいという夢を持つ私にとって、実際に移住した同業者であるFさんの存在は励みになるものだった。また、私はライターになった当初、いわゆる「エモい」文章をよく書いていたのだが、次第にそのスタイルが自分の中でしっくりこなくなり、飾り気のない文体に変えた。それによって人気が急落したとき、Fさんだけは「今のサキさんの文章は読んでいて心地いい」と言ってくれた。その言葉にどれだけ私が安心したか。Fさん自身は気づいていなかったと思うが、私にとってFさんの存在は大きいものだった。そんなFさんは1年以上、重い病と闘っていた。
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上京して初めて梅雨の辛さを知った私に、父は何も言わなかった
札幌から上京したと言うと、よく「大都会で驚いたでしょ?」と言われる。しかし私は19歳で上京した当初から、東京の「都会さ」にはさほど驚かなかった。何度か東京に遊びに来ていたから知っているし、札幌も充分に都会だ。大自然に囲まれた土地から出てきたわけではないし、周囲が望むような「いかにもおのぼりさん」なリアクションはできない。それよりも驚いたのは、梅雨の湿度と夏の暑さだ。もちろん、関東に梅雨があることも、札幌より暑いことも知っていた。だけど、それがこんなにも辛いだなんて。どうして誰も、教えてくれなかったのだろう?
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「ママになる前の自分に戻れるか不安」と話す友達のために、私ができること
北区・王子には数年に一度行く。学生時代の同級生がやっている劇団が毎回のように王子で公演をおこなうため、観劇に行くのだ。それ以外の用事で王子に行ったことはない。今年はGWに公演があった。昨年はコロナ禍でオンライン上演だったし、それ以前も都合が合わなくてしばらく観に行けていなかったので、王子も観劇も久しぶりだ。芝居は相変わらず面白かったが、本題はそれではない。芝居を観たあと、友人と王子のサイゼリヤでお茶したことを書きたいと思う。
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関西ジャニーズJr.に支えられている私が、聖地・大阪松竹座の前で祈ったこと
寝ても覚めても彼らのことを考えている。昨年から、関西ジャニーズJr.の6人組「Aぇ! group」にどハマりしているのだ。きっかけは、なにげなく見ていた「なにわ男子」のYouTube動画にAぇ! groupというワードが出てきて、「へぇ、そういう人たちがいるのか」と動画を見てみたこと。第一印象は「なんかアイドルっぽくない人たちだなぁ」。アイドルというより面白い大学生って感じだ。全員トーク力が高く、普通に話しているだけで笑いが生まれる。だけどそれほどテンションが高いわけではなく、見ていて心地がいい(あとで知ったが、メンバーの半数が20代後半なので落ち着いているのだ)。「安心して見ていられるグループだなぁ」と動画を見ていたらパフォーマンス動画を見つけ、歌とダンスのかっこよさにやられてしまった。トークとのギャップがものすごい。なんていうか、濁流に飲まれるように引き込まれてしまう。私はあらゆる配信サービスを駆使してAぇ! groupの映像を見漁った。たぶん、合法的に視聴できる過去映像はほとんど見たと思う。ライブチケットを取るため『ジャニーズJr.情報局』に入会したし、大阪エリアのラジオ放送を聴くためradikoに課金した。言わずもがな、メンバーがテレビに出れば必ず視聴する。まさか自分が、年甲斐もなくジャニーズにハマるとは。自分でもビックリなのだが、気づけばいつも彼らのことを考えているのだった。
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「あの頃はよかった」なんて言わない。吉祥寺・ハモニカ横丁で出会った旧友は、10年ぶりでも“今の私”と話してくれた
思い出話のエッセイを連載しているくせに、実生活では思い出話が好きじゃない。いや、人から「昔こんなことがあってね……」と、私の知らない思い出話を聞かせてもらうのは好きだ。そうではなくて、古い友人が飲みの席で言い出す「昔、〇〇が先生に怒られたよな~」みたいな話が嫌い。だって、私もその場にいたから知ってるし。そんな噛みすぎて味のなくなった話題のどこが面白いの?……と思う。だから学生時代にさんざん飲み歩いた吉祥寺で、さんざん一緒に飲んだくれた友人と再会するとき、少し怖かった。友人が「昔はこうだったよな」トークばかりしてきたらどうしよう、と。
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旅先で出会った友人が営む赤坂のモンゴル料理店。そこで過ごす夜は平和で、軽蔑や侮辱とは無縁の世界だった
私にとって、赤坂はモンゴルだ。何を言ってるんだと思われただろうが、なんてことはない。赤坂にあるモンゴル料理店によく行っていたのだ。そこは知り合いのスーホさんとタカシさんがやっていたお店で、こってりした羊料理をたんと振る舞ってくれる。宴が盛り上がってくるとスーホさんが音頭を取り、お客さん全員で歌いながら馬乳酒を回し飲みしたり、指名された客同士がモンゴル相撲をとったりもする。赤坂駅に降り立つときはいつもワクワクしていて、赤坂駅から帰りの電車に乗るときはいつもフワフワしていた。お腹いっぱいで、少しさみしい。いつだって、私にとって赤坂は異国の旅先だった。
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足利の街で過ごした4カ月間の新婚生活。ほんのりと楽しい、幸せな記憶
生まれ育ちは札幌、住んでいるのは東京なのだが、婚姻届けを出したのは栃木県の足利市だ。当時夫が仕事の都合で足利に住んでいて、彼のアパートに私が引っ越して籍を入れた。しかし、足利で一緒に暮らしたのはわずか4カ月ほど。その後はアパートを引き払って海外へ長旅に出た。最初からそういう計画だったのだ。短い期間でふたたび引っ越すとわかっていながら、そのタイミングで、その土地で入籍したことについて、「効率が悪い」と言われればぐうの音も出ない。けれど、私たちにとってはそれが最善だった。足利の思い出は、4カ月間の新婚生活とセットになっている。春かすみと花粉のせいでぼんやりとした、たぶん幸福な日々の記憶だ。
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突然「僕の物語を書いてくれないか」と電話してきた友人と、下北沢を歩いた日
下北沢には昔も今もよく行く。町田在住の私にとって「もっとも出やすい都会」であり、小ぢんまりとしていて歩きやすいのがいい。専門学生時代は『マジックスパイス(通称マジスパ)』というスープカレー屋によく行った。もともとは札幌のお店で、当時は下北沢に東京店ができたばかり。私はマジスパのスープカレーが好きで、いろんな友人に布教しては、連れ立って食べに行った。中でも、jとマジスパに行った日のことは忘れがたい。あの日のことを、私はこの先も忘れないと思う。
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学生時代を過ごした神保町は、訪れるたびに心がざわつく“焦燥と不安の街”だった
上京のエピソードといえば、「人の多さに驚いた」とか、「見るものすべてが新鮮で楽しかった」とか、逆に「田舎者コンプレックスを刺激されて辛かった」とか、そんな話をよく聞く。私はといえば、そこまでカルチャーショックは感じなかった。生まれ育った札幌もそこそこ都会だし、父が横浜で単身赴任していて、高校生のときから何度か遊びに行っていたからだ。上京してすぐに友達や恋人もできて、人からは順風満帆な東京生活に見えたと思う。
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共に作家を目指し、神保町で一緒に同人誌を売った学生時代の友人。彼女は、今の私を見て何を思うだろう
神保町といえば古書の街だ。学生時代を御茶ノ水・神保町あたりで過ごした私は、文芸を学んでいたくせに古書店にはあまり行かなかった。平成の小説が好きだったから、新刊書店には頻繁に行くものの、古書店には行こうと思わなかったのだ。
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