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その日の午前中、原稿を仕上げたところで夫からLINEが来た。義父の訃報だった。夫が朝早くに病院から呼ばれたことは聞いていたが、心づもりをしていても少し動揺する。

この日は取材の予定だったが、あらかじめ編集さんには義父の訃報が入るかもしれないことを伝えていたので、連絡したらすぐに「取材は僕が代わります」と言ってもらえた。他にも何件かメールをし、取材をリスケしたり、〆切を延ばしてもらったりした。

そして、自分と夫の喪服をスーツケースに詰めてバス停へ向かった。そこまでがあまりに迅速で、「私ってこんなにしっかり動けるんだなぁ」と思う。

夫の実家は茨城県の北茨城市にある。限りなく福島県に近い場所で、私の住む町田からは特急を使っても3時間以上。夫は中学2年まで町田で育ち、それから北茨城に引っ越したので、当初は田んぼしかなくて愕然としたらしい。

上野駅で、常磐線の特急ひたちの切符を買う。電車が来るまで時間があったので、立ち食いうどんを食べた。

常磐線のホームで電車を待っていると、ある場面を思い出した。結婚したばかりの頃、ここでこうして電車を待っていたときのことだ。

私と夫は長旅(いわゆるバックパッカー旅)を控えていて、その準備をするため夫の実家に滞在することになった。私たちは節約のため、特急を使わずに北茨城を目指していた。上野駅の売店で一番安いおにぎりを買い、ホームの待合室で食べた。

食べながら、私はずっと不安だった。もしも帰国後、職に就けなかったらどうしよう。ホームレスになって、おにぎりも買えなくなったらどうしよう……。結婚したばかりでこれから旅に出るというのに、私は不安でいっぱいだった。今から10年前のことだ。

記憶を懐かしんでいると、ふとSMAPの『夜空ノムコウ』が頭の中に流れた。

「あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ…」

10年前の私にとっての「未来」に、今の私はいる。上野駅のホームで、10年前の私は将来を案じ、10年後の私は案じていたよりはなんとかなっていて、義父の葬儀へと向かっている。

それがなんだか、不思議なことに思えた。

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夕方、ようやく夫の実家に着いた。夫と義母はいつも通りで、特に憔悴した様子はない。

東京に住む義弟はまだ到着していなかった。夫がLINEをしたところ、「今、喪服を作っています」と返信が来た。夫は「ミシンで!?」と言いながら、ミシンがけのジェスチャーをした。

義父は和室に寝かされていた。お線香をあげて、夫が顔にかけた白い布をめくる。月並みな言い方だが、まるで眠っているかのように穏やかな顔だった。

こうして最期のときを迎えてもなお、私は義父に対して何を思っていいのか、よくわからない。私は義父との距離を縮められず、どこか他人行儀なままだった。とても直接的な表現で言えば、義父のことは「好きでも嫌いでもない人」といった感じだ。

安らかな義父の顔を眺めながら、「この人がいたからこそ、夫が存在しているんだな」と思う。同時に、「なんだか私、お義父さんに対して無理に何かを思おうとしているな」とも感じた。

葬儀は完全な家族葬で行うため、親戚も近所の人も呼ばない。なんでも、義父が生きているうちに親戚にそう伝えてあったらしい。お坊さんも呼ばないそうだ。葬儀というとバタバタするイメージだが、すべて葬儀屋さん任せなので意外とやることがなかった。

台所にあるダイニングテーブルでお茶を飲んでいると、洗面所から義母の声がした。洗濯機が壊れたらしい。夫は「今洗濯しなくてもいいのに」とブツブツ言いながら、洗濯機のメーカーに電話をし、修理の依頼をした。親が死んだ日でも、洗濯機の修理を依頼するんだな。

電話の向こうから「最短で明後日の夕方です」と聞こえ、夫は「じゃあ明後日で」と答える。私と義母は驚いて顔を見合わせた。明後日は火葬場に行く日だ。そう夫に言うと、「夕方ならもう家に戻ってきてるから」と何食わぬ顔。

いや、そうだけど。なにも親の火葬があった日に洗濯機の修理をしなくてもいいでしょうよ。

だけど、なんだか夫らしいと感じた。義父が生きていれば大切にするけれど、その死をウェットには捉えていないところが。夫がいつも通りでいてくれることが心強かった。

夜になって、新品の喪服を持った義弟が到着した。「喪服を作っている」というのは「お店で裾上げしてもらっている」という意味だったらしい。

義弟は義父の顔を見て、「お父さん、大往生だね」「充分ピンピンコロリの部類だよ」とにこやかに言った。

そっか。大往生だから、ピンピンコロリだから、悲しまなくてもいいよね。

どこか、ほっとしている自分がいた。義父の死を悲しまなくても(悲しめなくても)いい理由を、与えてもらった気がした。

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訃報に接した日の翌日はお昼に葬儀屋さんが来て、家族だけで義父の納棺をした。回覧板に家族だけで見送る旨を書いたらしいが、それでも、近所の方が何人かお線香をあげに来てくれた。

一応、今夜がお通夜になるらしい。と言っても、お坊さんも呼ばないし家族だけなので、通夜振る舞いは必要ない。夫が「夕飯は、お父さんが好きだったハンバーグとだし巻きと焼き鮭にしよう」と言った。お弁当みたいなお通夜だ。

夫とハンバーグの下ごしらえをしてから、散歩に出た。遠くの山々に夕日が沈んでいくのを、田んぼの中の一本道を歩きながら眺める。

「ここに来るとき、上野駅のホームで旅に出る前のこと思い出してた。あのとき、すごく不安だったんだよ」

「そっかぁ」

「でも、大丈夫だったね。なんか、人生の答え合わせをしてるみたいだった」

SMAPは「全てが思うほど うまくはいかないみたいだ」と歌ったが、私たちの10年はどうだったろう。うまくいかないことも多いが、思うほど悪くはならなかったのではないか。

それから、今後の話を少しだけした。まだ介護が必要ないとはいえ、義母も高齢だ。この土地で1人で暮らしていくのは難しいだろう。私たちが考えるべきことはまだまだある。

今の私が抱えている悩みや不安に、10年後の私は「でも、大丈夫だったよ」と言ってくれるだろうか。全てが思うほどうまくはいかないけれど、それでも大丈夫だよ、と。

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訃報から2日後、午前中に葬儀屋さんが来て、みんなで棺に花を入れた。義母は霊柩車で、それ以外はタクシーで火葬場へ向かう。ご近所の方が大勢見送ってくださった。

お骨を拾って骨壺に入れているとき、義弟が義父のモノマネで「おぉ~い、早くしてくれぇ~い!」と言ったのがあまりにそっくりで、みんなで笑いながら収骨した。義父はせっかちな人だったから、本当にそう言いそうなのだ。

火葬が終わって家に帰ってきて、みんなでお茶を飲んだ。話題は自然と、義父の思い出話になる。一昨日からもう何度も義父の思い出話をしているが、それでも、ぽろぽろと新しい話題が出てきた。

4年前のお正月、みんなでうどん屋さんに行ったよね。あのときはまだ、お義父さんが運転していたね。お義父さん、年々せっかちになっていって、出発予定時刻よりだいぶ早く車に乗ってたよね。私が初めてこの家に泊まったとき、「蛇口をきつく閉めすぎないで」って張り紙された。お義父さん、何かを収納している段ボール箱に「ビニール類」って書こうとして「ビニュール類」って書いてたよね。そもそも、ビニール類ってなんだったんだろうね。

話せば話すほど、記憶のすき間に引っかかっていた思い出がこぼれ落ちてくる。

正直言って、義父との間にはあまり思い出がないと思っていた。頻繁に会っていたわけではないし、会話も少なかったから。

だけど、私が家族になって10年。他のみんなよりは短いけれど、私にも10年分の思い出があることに気づいた。そして、それらがちゃんと懐かしいことも。

この連載タイトルの通り、きっとすべての物事は、やがて思い出になってゆく。

あの頃の未来に立ったとき、「あの頃」はすべて過去になり、思い出になる。それが甘い思い出であっても苦い思い出であっても、はたまた味のない思い出であっても、振り返ると懐かしい。ただただ懐かしくて、ほんの少し立ち止まる。ただ、それだけだ。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
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