オギリマサホ(達人)の記事一覧

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街にあふれる「飛び出し看板」の今後を考える
街中にあふれすぎていて、かえって目に留まらない看板の一つ。それが「飛び出し看板」ではないだろうか。子どもが飛び出す恐れのある通学路や公園近くの路地など、ドライバーに注意を促したい箇所に設置されている看板。昭和の「交通戦争」と呼ばれた時代から増え始め、現在では街に見かけない日はなくなった。本来であれば目立たなくてはならない看板なのだが、今や日常の風景となってしまい、注意喚起の意味合いが薄れてきている。それではいけないのではないか。今回はこうした飛び出し看板を取り上げ、今一度安全運転を心掛ける契機としたい。
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こんなところに金次郎?~街角に突如として現れる二宮金次郎像を追う~
かつて小学生だった人たちが、必ず一度は目を通す本。それが「偉人の伝記」ではないだろうか。その伝記の常連が二宮金次郎である。大人になった二宮尊徳がどのような功績を残したかは知らなくても、「村人のためにわらじを直す」だの「読書をするために、菜種を育てて油を得る」といった少年・二宮金次郎のエピソードを覚えている人も多いだろう。その中でも一番有名なのが、「薪を背負いながら本を読む」という話だ。
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街角プラ看板美術館~こんなデザインできたらいいなと思った看板たち~
前回の当コラムにおいて、街で見かける気になるペンキ絵について取り上げた。しかし気になる絵は、ただペンキでのみ描かれているわけではない。商店の入り口に掲げられた、アクリル板で作られた看板(以降、プラ看板と略す)の絵も、私の心をとらえて離さない。プラ看板は内部にライトが入れられており、夜になると明るく街を照らす内照式看板になっていることがほとんどだ。こうしたプラ看板には店名のみが書かれていることが多いが、街を歩けば意匠を凝らしたデザインの看板も発見することができる。今回は、私が参考にしたいプラ看板の絵とデザインについて見ていきたい。
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街角ペンキ絵美術館~こんな絵描けたらいいなと思った看板たち
イラストレーターの端くれである自分にとって、人の描いた絵というのはどうしても気になる存在だ。いつも「あんな絵が描けたらいいな」という、羨望の気持ちで眺めている。気になる絵は、美術館にばかりあるわけではない。街を歩けば、至る所に絵を発見することができる。中には高名な画家やイラストレーターの描いた広告などもあるが、その大半は作者がわからない絵である。広告屋さんが描いたのか、あるいは絵心のある人が手掛けたのか。今回はそんな街角アートのうち、私が「こんな絵を描いてみたい!」と思ったペンキ絵を取り上げていきたい。
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ドアマットは訴える! もはや単なる泥落としではない!
基本的に下ばかり向いて歩いている。そのため、足元にあるものについては目につきやすい。店に入る時も、看板よりも先に目に入るのは、入り口に敷いてあるドアマットである。ドアマットの役割とは主に、外から入ってくる人の靴の泥を落とすことにある。汚れがつきやすいため、デザインもシンプルな暗色である方が望ましいだろう。一方でドアマットは、客を迎え入れる最初の要素であり、店の顔ともなるものだから、派手で綺麗な色柄の方が宣伝効果は高まるはずだ。こうした矛盾を乗り越えて、客に訴えかけるデザインとなったドアマットたちを街で追ってみた。
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ブロック塀の古文書~サビた金属看板を解読する~
近頃のレトロブームに伴い、昭和中期に多く作られた金属看板が評価されている。大村崑のオロナミンCや、松山容子のボンカレーの広告看板はその代表格で、状態の良いものはオークションサイトなどで高値で取引されている。また郊外を車で走っている際などに目撃する、木造住宅の壁にビッシリと貼られた貸金業者の金属看板が好きだという人も多い。このように注目を集める金属看板がある一方で、長らく設置されていながら街に同化して全く顧みられない金属看板も、実は都内に多数残されている。こうした金属看板は大抵、古いブロック塀にビス止めされたものだ。外すのが面倒であるとか、跡が残るといった理由で、広告主が廃業するなど広告としての意味が失われてしまった後も、看板のみが残り続けることが多い。そしてブロック塀の表面で次第に風化し、古文書と化していくのである。金属看板の性質上、風雨に曝される時間が長ければ長いほどサビが生じ、次第に文字の判読が困難になっていく。サビて全く文字の判読ができない看板については、当サイトの美術評論家・楠見清氏による連載「無言板」に詳しいが、今回は「かろうじて文字が判読できる看板」を取り上げ、そこにどのような情報が遺されているのかを読み解いていきたい。
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郵便ポスト色彩図鑑~黄色ポスト、ピンク色ポスト、速達専用青ポスト、キャラポスト…etc
郵便ポストは赤いものと相場は決まっている。それは四代目柳亭痴楽のせいではなく(昔「郵便ポストが赤いのも、み~んな私のせいなのよ」というネタがあったのだ)、ポストの位置をわかりやすくする目的で1908(明治41)年に赤色ポストが正式制定されたためである(郵政博物館HP)。しかし逆に「ポストは赤でなければならない」という決まりもないようで、最近では各地に趣向を凝らした色とりどりの郵便ポストが設置されている。「上に何かが載っている」系のポストについては以前このコラムでも紹介したが(「平らだったから置いちゃいました」系の郵便ポストで、雑然となりゆく街)、今回は郵便ポストの「色」について取り上げてみたい。
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はたらくタヌキ~街を支えるタヌキの置物たち~
さまざまな動物の中で、およそタヌキほど実像とかけ離れたデフォルメがなされているものはないのではないだろうか。野生のタヌキはシュッとした顔で太ってもおらず、むろん“八畳敷”でもない。ところが昔話に登場するタヌキたちは、いずれも丸々と太った腹を抱え、悪だくみをしたり、人を化かしたりする。多くの人が「タヌキ」と聞いて思い浮かべるのは後者のイメージではないだろうか。
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街の中でふと発見する保存車両、つまり「こんなところに電車?」の愉しみ
昔から「動かない電車」に、何とも言えない興奮を覚えるたちであった。駅に停車しているとか、車庫に入っている電車ということではない。新しく製造され工場からトレーラーで道路陸送されたり、引退後に地面に固定され再利用されたりする保存電車のことを指している。
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いろんな「大仏」を巡る旅と、味わい深い「中仏」との出会い
大仏が好きだ。大きな仏像は、見る者を圧倒する力を持っている。仏教に対する特別な信仰心がなくとも、無量の慈悲を感じてついつい手を合わせてしまう。奈良時代、度重なる政変や飢饉、地震に見舞われた聖武天皇が、大仏を建立したくなった気持ちもわからなくはない。仏が大きい、ただそれだけで何となく救われる思いがする。昔のチョコレートのCMではないが、まさに「大きいことはいいこと」なのだ。
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