私は22歳で、私を結婚式に招いた新郎は24歳で、私は17歳の頃彼のことが好きだった。好きだったときからもう何年も経っているので、結婚式そのものは別につらくない。しかし当時の私は退職で心身ともにボロボロだったので、結婚式を挙げる幸せそうな彼のことが羨ましくて、やさぐれた気分だった。
あらかじめネットで予約していたゲストハウスに向かって、派手なピンクのスーツケースを引いて歩く。日差しは強いが、空気は東京よりずっとさわやかだ。沖縄は台風が多いからだろうか、コンクリートの箱のような建物が多い。路地に入ると古いラブホテルがあり、昔の少女漫画のような名前がついていた。
ラブホテルの向かいに、ゲストハウスの建物があった。開けっ放しの玄関を入ると、土間にいくつものサンダルが散らばっている。入ってすぐが居間で、ガラスのテーブルとソファと籐椅子が置かれていた。「予約していた吉玉です」と名乗ると、ドレッドヘアの若者が受付用紙を持ってきて、「これに住所と名前を書いてください」という。その男の子はヘルパーと呼ばれる役割で、オーナーに代わってこのゲストハウスを切り盛りしているらしい。
そのゲストハウスはラブホテルを改装した建物らしいが、1階はふつうの民家のようだった。リビングと隣接した和室には大きな本棚があり、漫画がぎっしりと並んでいる。リビングの奥にはキッチンと洗濯機があり、その奥にもう一室フローリングの広い部屋があった(その部屋だけエアコンがついていて、麻雀卓が置かれていた)。宿泊する部屋は2階で、部屋にはシャワーとトイレとカーテンの付いた二段ベッドが2つある。私の部屋にはすでに、20代後半の女の人と20歳の女の子がいた。2人とも、何カ月も滞在しているらしい。
荷物を置いてリビングにいくと、何人かの人がいた。みんな長期滞在者らしく、親しげだ。ほとんどが20代だろう。女性は私を含めて3人で、あとはみんな男性だった。話しているうちに「海に行こう」という流れになり、みんなで歩いて海に行った。那覇唯一のビーチである「波の上ビーチ」がすぐそこなのだ。歩いて5分くらいなので、みんなゲストハウスで水着に着替えて、そのままの格好で向かった。私は黒地に色とりどりの水玉がついたビキニで、一応その上にTシャツを着ていた。海では、浮き輪を引っ張ってもらったり、海に引きずり込まれたりしてキャッキャとはしゃいだ。
そのゲストハウスには3泊ほどした。そこは私以外はみんな長期滞在者で、コールセンターや運転代行、スナックのバイトをしながら住んでいた。昼間は誰かしらがリビングにいるので、一人旅でも退屈することがなかった。
観察していたわけではないけれど、ゲストハウスの人たちを見ていると相関図的なものが見えてくる。この人はみんなのリーダー的存在、あの人とこの人は仲良し、あの人はあの子を好き、この人は嫌われている。こんな小さなコミュニティーの中でも、恋や友情どころか、ヒエラルキーのようなものまで生まれていて、社会の縮図のようだった。
そんな中で、私は岸本さん(仮名)とよく話した。岸本さんは当時36歳で、半年ほど前からこのゲストハウスに滞在し、コールセンターでバイトをしているそうだ。もともとは九州で介護関係の仕事をしていたという。
岸本さんは優しくておっとりしていて、ひょろひょろで眼鏡をかけていて、ちょっとオタクっぽい雰囲気の人だ。特に話が合うわけでもないのだけれど、一緒にいるとなんだか安心する。私は岸本さんに懐いて、よくおじさんいじりをした。
ゲストハウスを出発するとき、冗談で「岸本さん、見送ってくださいよ~」と言うと、「夜勤明けだから眠いんだよな~」と言いつつ、私がタクシーに乗り込むところまで見送ってくれた。
沖縄本島を北上して別のゲストハウスに1泊し、結婚式に出席した。
天気の悪い日で、教会の窓からは荒れた海が見えていた。好きだった人の結婚式は案外何も思うことなく、あっさりと終わった。
そして住んでいた横浜に帰り、荷物をまとめて、札幌の実家に引っ越した。母親から「仕事を辞めたんだから実家に帰ってきなさい」と言われていたのだ。実家に戻る前、最後の悪あがきのように沖縄旅行を楽しんだのだった。
どういう経緯だったかは覚えていないけれど、札幌に帰ってから、岸本さんと頻繁に連絡を取り合うようになった。ゲストハウスで出会ったときに連絡先を交換していたし、mixi(懐かしい!)でもつながっていた。
私はホテルのレストランで派遣バイトを始めた。岸本さんはゲストハウスを出て九州の実家に戻り、介護職に就いたという。
当時の私はメンタルが不安定だった。ふだんは意識的に「メンヘラ」という言葉を使わないようにしているが、当時の私を表現するのにこれほどしっくりくる言葉はないだろう。私はよく岸本さんに弱音や愚痴を吐き、岸本さんはそれを優しく受け止めてくれた。
最初に働いたホテルでのバイトは順調だった。しかし派遣会社の人から「吉玉さん頑張ってるし、もうワンランク上のホテルで働きませんか? 時給も上がりますよ」と勧められ、別のホテルのレストランで働くことになった。そこは有名シェフがいる本格レストランで、どんくさい私はなかなか仕事を覚えられず、人間関係にも悩んで2カ月で辞めてしまった。
私は落ち込み、泣き、寝込んだ。岸本さんは頻繁に電話をくれて、私の話を聞き、慰めてくれた。「自分も今は元気だけれど、離婚した頃は心の調子を崩して精神科のクリニックにかかった」と言っていた。岸本さんはかつて東京で結婚生活をしていて、子供もいたらしいが、妻からフラれるかたちで離婚したらしい。離婚直後はかなり落ち込んだそうだ。その後心機一転、仕事を辞めてマンションも引き払って沖縄に来たという。
岸本さんはたぶん、メンタルが弱い女の子に惹かれるタイプなのだろう。私はそれまでも、メンタルが弱いことで、同じようにメンタルが弱い男性を引き寄せてしまうことがあった。弱さを抱える男性の中には、「自分よりも弱い存在を支えたい」という欲求を持つ人がいるのだ。
それをわかっていながらも、私は岸本さんからの電話を待つようになった。私はいつの間にか、岸本さんに恋をしていたのだ。岸本さんの柔らかい声と九州のイントネーションが愛おしかった。おそらく岸本さんも、私のことを好きだと思われた。そう感じるような思わせぶりな言葉をよく言われたのだ。また、当時はガラケーだったのだが、岸本さんはソフトバンクからauに乗り換えた。「なんで?」と聞くと、「サキちゃんがauだから」と言う。当時のauには登録した電話番号への発信が安くなるプランがあって、岸本さんは私の番号を登録するためにわざわざ携帯会社を変えたのだ。
しかし、はっきり好きだと言われたわけではないので、岸本さんの気持ちはわからない。勘違いだったら恥ずかしいので、ぬか喜びしないよう気を付けていた。
夏の沖縄で岸本さんと出会ってから半年が経ち、北海道の寒い冬を越えて、春になった。私は働けるまでに回復して、友人が前年に働いていた北アルプスの山小屋に履歴書を送り、夏から働く契約をした。それまでの期間は、パン工場で夜勤のアルバイトをすることになった。
パン工場は単純作業で、時間が進むのが遅い。立ちっぱなしだから腰や足も痛くなる。そんな愚痴を言うと、岸本さんはいつもメールで励ましてくれた。夜中の休憩時間に、岸本さんからのメールを読むのが楽しみだった。
バイトが休みの日、いつものように電話をしていると、岸本さんは軽い口調で「いつか一緒に暮らそう」と言った。それは告白なのか、それともただのルームシェアのお誘いなのか。ふつうに考えれば前者だが、あのゲストハウスで暮らしていた人たちにとっては後者もありえる。本気かどうかわからなかったので、いかにも真に受けてませんよというふうに、「楽しそうだね~」と流した。だけど、好きな人にそんなことを言われてうれしくないわけがない。黙っていてもにやけてしまうくらい、幸せだった。
そんなある日、めずらしく岸本さんからメールが来なかった。私から送っても返信がないし、電話にも出ない。
嫌な予感がした。岸本さんは前から「職場の人間関係で悩んでいる」と言っていたし、「ストレスを感じて突発的に九州のゲストハウスに泊まりに行った」とも言っていた。
心配していると、岸本さんの携帯から電話が来た。電話口にいたのは、年配の女性だった。岸本さんの母だと言うその人は、「息子の行方を知りませんか?」と言った。岸本さんは仕事に行くと言って家を出たきり職場には行かず、そのまま行方不明になってしまったという。携帯電話も家に置いて行ったので連絡の取りようがなく、家族も困っているとのこと。その携帯電話に私との通話履歴が残っていたので、私に連絡が来たのだった。
岸本さんのお母さんの話によると、岸本さんが失踪するのはこれで2回目だという。岸本さんは離婚したあと、仕事を無断欠勤し、住んでいたマンションもそのままにしていなくなったそうだ。その後、だいぶ経ってから沖縄のゲストハウスにいることがわかったという。つまり私が沖縄で出会ったとき、彼は失踪中だったのだ。
私は、沖縄のゲストハウスで知り合った人たちに岸本さんの行方を聞いてみたり、ネットで検索しまくったりした。でも、岸本さんは見つからない。ご家族に「警察に届けてみては?」と提案したら、「前の失踪のときに警察に行ったけれど何もしてくれなかった」と言う。「ネットで顔写真と本名を出して捜索するのはどうでしょう?」と提案したら、「インターネットのことはよくわからないけれど、ここは田舎で、失踪したことが近所の人に知られたら世間体が悪い」とのことだった。
途方に暮れた。
とにかく、寂しかった。岸本さんと電話したかった。あんなにも私のことを気にかけてくれたのに、なんで何も言わずにいなくなってしまうの。いつか一緒に暮らそうって言ったくせに。
怒りが湧いた。岸本さんが追い込まれていることに気づけなかった自分にも、腹が立った。
そのあと私は予定通り、山小屋で働いた。そこは見るものすべてが新鮮で、気づけばすっかり岸本さんのことを忘れて楽しんでいた。つくづく薄情だ。私はそのまま山小屋で何年か働き、そこで出会った人と結婚した。
ある雨の日、3歳年下の後輩スタッフと店番をしていた。お客さんが少なくてヒマで、さんざん後輩の恋バナを聞いて、私も何か話したくなった。そこで、「若い頃、好きな人が失踪したことがあってね」と岸本さんの話をした。
それを聞いた後輩は、「もしかしたら岸本さんは本気でサキさんと一緒に暮らす気でいて、だからこそ仕事を辞められなくて追い込まれたのかもしれませんね」と言った。
そんなこと、考えたこともなかった。だけど、言われてみるとそんな気もする。岸本さんは、私と付き合っていると思っていたのかもしれない。若くて弱い彼女を自分が支えていかねばと気負って、それが負担になったのかもしれない。
あの頃の岸本さんと同世代になってみて思うのは、彼は本当にダメな人だったということ。20代前半の女の子に精神的に依存するくらい、彼は弱くてダメな人だった。だけど、優しい人だった。彼と恋をしなくて本当によかった。
結局一度も好きだと言われないまま、言わないまま、もう岸本さんの顔も思い出せない。
文=吉玉サキ(@saki_yoshidama)