考え抜かれたおいしさのパン
『Tempus』はばんじん通りの商店街にある。商店街といっても並ぶのはほとんどが住宅で、シャッターをおろした建物に残る看板で、かつて「商店街だった」とわかる静かな通りだ。『Tempus』も建物自体はきわめてシンプル。窓際に置かれたパンがなければ、ベーカリーと気づかず通り過ぎてしまうだろう。
店内に入るとすぐにパンが並べられた台があり、そこに続けてカウンター。さらに奥には買ったパンをその場で食べられるテーブルがある。カウンターの向こうは作業場で小さめなオーブンがあり、店主の大野陽平さんが作業をしていたりする。いろいろと距離感が近く、リラックスした空気が漂っている。
ひっそりとした店だが、パンは上等だ。目に入ったフォカッチャがなんとも素晴らしかった。
ふすまを入れた生地は香ばしく噛むほどに甘みが広がる。そこにオリーブの香りが追いかけるように重なると、さらにローズマリーの香りが絡んでくる。ひとつひとつの素材がはっきり立ちながらも、全体がフォカッチャのおいしさとしてまとまっている。しっかり考え抜かれたおいしさなのだ。
店主の大野陽平さんはこの『Tempus』を含めて、キャリア20年のパン職人。
『Tempus』とはラテン語で「時」という意味があり、自分のこれまでの時間を詰め込んだ店にしたいと考えてつけたのだという。実は大野さん、なかなか濃密な20年を過ごしてきたのだ。
紆余曲折のパン人生
パンのおいしさに目覚めたのは中学のとき。高校時代はサッカーに打ち込み、卒業したらベーカリーで働きたいと考えていたのだが、両親の希望もあって静岡の短期大学に進学する。短大卒業後、夢を叶えるべく調理師資格の取れる専門学校に通いながら、静岡市内のベーカリーでアルバイトを始めた。その店でパン作りの基礎を学んだのだ。
そして専門学校を卒業して本格的にベーカリーで働き始めるのかと思いきや、ドイツのパンに興味がわき始め、ワーキング・ホリデーを利用してドイツに渡ってしまう。東京ならばドイツパンの店はたくさんあるが、静岡ではなかなか見ることがなかった。だったら、ドイツに行ってしまおうという考えだったという。
行った先は、ミュンヘンの南にあるガルミッシュ=パルテンキルヒェン。そこのベーカリーで働きながら、見様見真似でパン作りを学んだ。
そしてワーキング・ホリデーの期間が切れて日本に戻り、次に働き始めたのが、たまプラーザの名店『ベッカライ徳多朗』だった。ドイツ語でベーカリーという意味の名前がついていたから選んだのだが、実はその頃、『ベッカライ徳多朗』ではドイツパンをあまり作っていなかったという……。しかし、この『ベッカライ徳多朗』で得たものは多く、大野さんいわく「パンの気持ちになって作るということを学んだ」そうだ。
『ベッカライ徳多朗』で働いた後、しばらくは独立資金を貯めるためパンとは関係のないアルバイトをする。さらに広尾にあった「キリーズフレッシュ」で働き、いったん『ベッカライ徳多朗』に戻った後、資金を出してくれるオーナーと知り合い、学芸大学の「ボルソ」を起ち上げることにになった。
しかしその「ボルソ」は閉店。今度は自分の店を、と物件を探し「家賃が安かった」のと「街の雰囲気が良かった」こともあり、ここ五反野で2019年に『Tempus』を始めることになった。短大を出てからここまで15年。『Tempus』という店名には、その時間が込められているのだ。
「全部、自分でやっているのがいいんですよ」
さまざまな紆余曲折があった過去を、きわめて飄々とした口調で話してくれた大野さん。念願だった自分の店ではあるものの、いい具合に力が抜けているのがうかがえる。この『Tempus』についても「自分がやってきたことをやっているだけです。自分が作るパンにハマってくれるお客さんがいればいいかなって感じなんです」と、きわめて自然体だ。その姿勢は、五反野というエリアになんとなく似合っている。お客さんが普段着で気軽に買いに来てくれるベーカリーでありたいとも言っていた。
しかし自然体だからといって、パン作りが“ゆるい”わけではない。大野さんはパンを作る面白さを「ゲームみたいな感じ。自分で工程を組み立ててそれをクリアして、いいパンが焼けるのが楽しい」と語ってくれた。パンによって、さらにそのときのコンディションによって、作業は微妙に変わってくる。それが楽しいというのだ。大野さんは要するに職人なのだろう。
大野さんは自身のことを「がんこ」だとも言う。
「全部、自分でやっているのがいいんですよ。自分が作ったものをお客さんに渡して、ちょっとパンのこととか話したりして。最高ですね。ひとりでやっている醍醐味かなと思います」と、大野さんはうれしそうに話してくれた。
ゆるい雰囲気で間口がずいぶん広い一方で、パンは大まじめ。大野さんのこれまでの時間が詰め込まれた『Tempus』そんな2つが同居した、最高なベーカリーなのである。
取材・撮影・文=本橋隆司